November 27, 2022

「海の命」は何を象徴しているのか?

「海の命」(小6)は何を象徴しているかを問う授業案を見たことがある。
 授業者に自分はどう考えているかを尋ねたが、端的な答えが出てこなかった。
 私も、答えられない。
 そもそも「海の命が何を象徴しているか」という発問が理解できないのだ。

 手元のネット辞書で「象徴」を引く。
(@nifty辞書 世界大百科事典 第2版 象徴とは)

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象徴はきわめて多義的な概念であるが,ごく一般的には,たとえば鳩は平和の象徴であるとか,王冠は王位の象徴であるとかいうように,目や耳などで直接知覚できない何か(意味や価値など)を,何らかの類似によって具象化したもの(物や動物や,あるいはある形象など)をいう。
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 「ハト → 平和」のように、具象の裏に抽象が隠れているというのが「象徴」の構造だ。

「海の命」は何を象徴しているかと問われて、

・海にすむ全ての生き物の命
・海に関わるもの全ての命

という答えが出てきたとしたら、これは「海の命の意味・題名の意味」ということでしかない。
 それは「象徴」ではない。

 「〇〇という具象には、△△という抽象が隠れている」

という構図で考えたら

「『海の命』という具象には、△△という抽象が隠れている」ではなく、

「〇〇という具象には、『海の命』という抽象が隠れている」になるのではないか。

「海の命」を象徴している具体物は何か?

そうやって、具象を考えたら

「海の命を象徴しているのは、クエである」

「海の命を象徴しているのは、父親である」

「海の命を象徴しているのは、与吉じいさである」

「海の命を象徴しているのは、太一である」

などと、当てはめることができる。

それらを全てひっくるめた、全ての登場人物が「海の命」を象徴しているとも言える。

自分が不勉強で理解が足りないのかもしれない。
そう考えて、いくつか実践を検索してみた。

http://www.muraki-e.tym.ed.jp/muraki2006/061108kokugo/6-1.pdf
◆「海の命」という題名は、作品の主題を象徴している。

http://www.iwate-ed.jp/db/db2/sid_data/es/kokugo/e960073.txt
◆この教材は「海の命」という題名に象徴されている主題について考える学習、すなわち「海の命」とは一体何を表しているのかを考えることを大きな学習の柱として読み深めさせたい

・・・どちらも「象徴」について十分な説明になっているのかどうか理解できなかった。

 

A:「海の命」を象徴している物は何か?

B:「海の命」は、何を象徴しているか?

この2つの問いが真逆であることを理解し、どちらを問うているのか、教師が混乱しているとしたら、授業がうまくいくはずがない。

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October 13, 2022

「海の命」の解釈

かつて「海の命」の解釈がどうしてもできなかった自分には、次の記述は衝撃的だった。

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父親の命を奪った偉大なものへの挑戦によって成長する物語。あの宮崎駿のアニメ『天空の城 ラピュタ』にも採用された話型である。そう、形を変えた象徴レベルでの父親殺しの物語である。

(石原千秋『国語教科書の思想』P101(ちくま新書2005年)。

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「ラピュタ」をよく知らないので、自分には「ラピュタ」との重ね読みはできない。

なお、「スターウオーズ」も「父親殺し」の典型だそうだが、これも自分はよく分からない。

ただ、そのように話型で比べて読むこと・重ねて読むことができると知ったときは感激した。

「父親の命を奪った偉大なものへの挑戦によって成長する物語」とは、実に的を得た表現であり、話型で読める作品についてもっと探ってみたいと思った。

 また「父親を奪ったものへの挑戦」が、「父親殺し」になるというのも意外な指摘だった。

 象徴レベルの父親殺しというのは、「親を乗りこえる」という意味だから、この作品は2つの「挑戦」が描かれていることになる。

◆偉大な父への挑戦◆

その命を奪ったクエへの挑戦「クエを捕まえなければ一人前の漁師になれない」という太一の独白もあるから、父の命を奪ったそのクエを捕まえることは、すなわち、偉大な父親を越えることを意味する。

しかし、クエを捕まえて復讐を果たせば、父を超えられてハッピーエンドというほど、「海の命」は単純でない。

太一は、最低限の魚しか捕まえない漁の仕方を与吉じいさから学んだ。

クエを殺さなくても生きていけるなら、わざわざクエを殺す必要もないことに気付いてしまった。

太一は与吉じいさの元で漁を学び、父親とは異なる漁師の生き方を学んだ。

もし、太一があのままクエを捕まえていれば、父と同じ道を歩んだことになるが、クエを捕まえないという選択をした。

私は、父親と別の生き方を選ぶ「大義名分」として、クエを父親とみなすことでクエを殺さないというロジックを思い付いのだと解釈しているが、その解釈を他人に押し付けるつもりはない。

あれほど捕まえたかった父のカタキなのに、最後には捕まえるのをやめてしまう。

クエを捕まえなかった太一の心境を考えていたら、ある作品と重なってきた。

それが「恩讐の彼方に(青の洞門)」だ。

父親殺しの犯人は、今は出家して世の中のために洞門を掘っている。犯人は、かたき討ちにやってきた息子に、洞門を掘り終えたら自分は殺されてもいい、工事が終わるまで待ってくれと頼む。親のかたきとは言え、20年も及ぶ工事を貫徹した姿に心を打たれた息子は、結局はかたき討ちをやめる。

・・・この『恩讐の彼方に」の結末は、殺されたがっているように見えたクエの様子に、殺す気をなくす太一と重なってくる。

偉大なものに出会い、戦意喪失したというか、かたきを捕まえることの無意味さを知ったという点で同じ構図だ。

「恩讐の彼方に」も精神的な父親殺し(父親超え)の作品なのかもしれない。

 ところで、「父親殺し」という用語を知って、気になったのは次の点だ

 

「海のいのち」って要するにどんな話なのだろう。

1)尊敬する父親と同じ道を歩もう(村一番の漁師になろう)とする作品

2)尊敬する父とは違う道を歩もうとする作品

3)尊敬する父親を奪ったものを追い求める作品

4)さまざまな人に出会い、成長していく作品

5)自然の偉大さに触れる作品(命の大切さを訴える作品)あえて1つに絞ることもない。文学

作品はさまざまな読みが可能だ、それを承知で言うならば、小学生にとって、この作品を

「少年が父親と異なる生き方を選んだ話=精神的な父親殺しの話=父親の漁の仕方は間違っていた」

と捉えるのは難しい。

単純に「漁師の息子が父親と同じ一人前の漁師に成長した」と捉えるのが普通だと思う。

子供たちに「親の生き方を否定する=親を乗り越える」という概念が確立していないからだ。

もちろん対象は6年生だから、そろそろ「親の否定」を学ぶべき時期なのかもしれない。

この作品は、「親の否定」を学ぶ良い機会なのかもしれない。

 

※1928年にロシアのプロップが『昔話の形態学』で示した物語のパターン、1966年にフランスのロラン・バルトの『物語の構造分析序説』で示した物語の「機能」などについて、結局、理解しないまま、国語の授業をする立場ではなくなってしまった。若い先生方に「分析批評」を広めるにあたり、物語論(ナラトロジー)や構造主義の骨太な文学研究の歴史も踏まえた解説をしたいと密かに思っている。

参考 「物型論の基礎と応用」橋本陽介(2017年講談社)プロップの『昔話の形態学』 2019.06.22 https://kotento.com/2019/05/06/post-3020/

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August 06, 2020

対比の授業を考える

「二項対立・二元論」について書いておきたい。
石原千秋氏は、「二項対立・二元論」について次のように述べている。

==================
たとえば、「自己」ということについて考えるとしよう。そのとき、まずしなければならないのは、「自己」とは反対の概念を思い浮かべることである。それは「他者」だ。すると、「自己」という概念は、この「他者」という概念との『関係の中で考えればいいことになる。こういう方法を、二項対立とか二元論と呼ぶ。

「近代」を問い直す文章自体が、二項対立のレトリックを用いずには成立しないのだ。〈前近代/近代〉とか〈近代/現代(あるいはポストモダン〉といった二項対立はよく見かけるレトリックだ。独善的にならずに、関係の中でものを考えようとするなら、どこかで二項対立を用いるしかないのである。その意味で、二項対立は思考の基本である。

『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)P14~16
※太字は原文通り
=============

・・・小学校で扱う文学作品でも、二項対立(対比)で読めるものが多い。
作品の対比構造を整理すると、主題が明らかになるのだ。


(1)「ごんぎつね」の対比

「『ごんぎつね』の作品の中で重要な対比を考えさない。」と問うと、たとえば

①「いたずら」と「つぐない」
②「すれちがい」と「通じ合い」

という意見が出る。
ただし、「と」で並べるだけでは、漠然としているので、説明をさせる必要がある。

①いたずら好きだったごんが、兵十に同情して、つぐないをするようになった。
だから「いたずら」から「つぐない」へとごんが成長したという意味の対比だ。

②ごんが兵十に撃たれた直後にごんがつぐないに来たことが分かった。
だから、すれちがってしまったけど、最後の最後に心が通じ合ったという意味の対比だ。

「ごん/兵十」、「うなぎ/栗」などの具体物を取り上げても深い読みにはつながらないかもしれないが、とりあえず列挙してみると、そこから抽象思考に移行できる場合もある。
どんな対比(二項対立)でもいいから、まずはたくさん列挙させてみるのがいい。


(2)「一つの花」の対比

「『一つの花』の作品の中で重要な対比を考えさない」と問うと、

「戦争中/戦後」、「ほしがるゆみ子/与えるゆみ子」、「貧しさ/豊かさ」、「戦争/平和」、「おにぎり/コスモス」といった対比が出る。
これらを、大きな対比で括ってみると、

◆「戦時中の貧しさ」と「戦後の豊かさ」

あたりが出る。

◆「戦争中は貧しくておにぎりも十分にもらえなかったゆみ子が、戦争が終わったら豊かな食事を楽しんでいる」

対比は強調のレトリックだから、戦争中が悲惨であればあるほど、戦後の豊かさが浮かび上がってくる。


(3)「海の命」の対比

「『海の命』の作品の中で重要な対比を考えさない」と問うと、結構むずかしい。
この作品は「二項対立では捉えられないのかな」と疑ってもいる。
具体物で列挙してみる。

①「太一/じいさ」  ②「太一/父」 ③「太一/クエ」  ④「父親/与吉じいさ」
④「クエを逃がす前/クエを逃がす後」 ⑤「命を奪う海/命を救う海」
 
などから、何か抽象思考に移行してみた。
「二項対立」というよりは「二面性」と言った方がぴったりくるものもある。

◆太一の成長
①「父のような漁師になりたい太一」から「与吉じいさのような漁師になりたい太一」への成長
②「魚をたくさん捕る漁師」から「ほどほどの量で満足できる漁師」への成長
③クエを獲って復讐したい太一から、クエを逃がして「海の命」を守りたい太一への成長

◆海の二面性
①「父の命を奪う海」であると同時に「皆の命を救う恵みの海」

◆父の二面性
①「村一番の漁師」ではあると同時に「海の命を大事にしない漁師」

一番重要な対比を考えさせたとき、題が「海の命」だから、、「海の二面性」の方に子どもは惹かれるかもしれない。


(4)「やまなし」の対比

以前「陰陽二元論」という東洋的な思想を取り上げた。

「『やまなし』の作品の中で重要な対比を考えさない」と問うと、この思想が絡んでくる。

二枚の幻燈だから「5月/12月」で分けられることは、すぐに分かる。

①「五月/十二月」  ②「かばの花/やまなし」
③「かわせみ/やまなし」 ④「こわい/いいにおい」

そして、大きな対比で括ってみると、

◆「五月=動の中の死」と「十二月=静の中の誕生」

のようになる。
まさに「陰陽二元論の「陽の中の陰・陰の中の陽」の世界なのである。

 

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August 11, 2015

「海の命」の教材分析

 久しぶりにお会いした佐藤洋一先生(愛知教育大学)から、「海の命」の教材分析の新しい視点をいただいた。
 
➀冒頭部には、時・人・場の設定が書かれていない。
 現代小説の冒頭は、場面設定でなく、メッセージ性が高い。

 

 「父もその父も、その先ずっと顔も知らない父親たち」と男しか登場しないことに、まず疑問を持たせたい。
 このお話は、基本的に「男の話」なのだ。

 

 父親たちが住んでいた海に「住んでいた」というには特異な表現であるから、ここも疑問を持たせたい。

 

 たしかに、小学校教科書であったとしても、冒頭部で「いつ・どこで・だれが」が明確な作品なんでない。
 その代わりにあるのが「メッセ―ジ」か。意識して見てみよう。

 

 

②海の2面性は「めぐみ」と「脅威」

 

③「海の命」の2面性は「少年の成長」と「自然への畏怖」

 

④「村一番の評価」の2面性は、「クエを獲ること」と「クエを獲らないこと」

 

⑤結婚(子孫の繁栄)は、成長物語の結末の典型

 

⑥「思い込み」には邪悪な思い込みと好奇の思い込みがある。

 

⑦色にも意味がある。「緑の目」は邪悪、「青の目」は幸福や愛情。ロイヤルブルーはイギリスの高貴な色。

 

といった指摘の中でも、一番の収穫は、クライマックス場面の「クエをとらない」意味について

 

⑧本当に一人前になるとは、自分が判断を下すこと・自立すること
 お父や与吉じいさの教えに従うのではなく自分で意思決定することが真の自立。
 太一は迷った末に、自分としての決断を下した。
 それこそが、この作品の「太一の成長」なのだ。

 

 

そして
⑨現代小説である「海の命」は、複数の読みができる仕掛けがある。
 だから、教師の1つの読みを押し付けると、読みの鋭い子が納得しないことがある。

 

むろん、このような教材分析と授業の組み立ては別物。
こうしたヒントを元に、どう授業を展開するかを考えるには大学教授でなく、教師の仕事である。

 

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May 11, 2014

学力状況調査の問題のL方型マトリックス

Photo

 

 

今年度の学力状況調査問題(小学校国語)で、一番印象に残っているのは、A問題の7だった。

 

「情報を関連付ける」というねらいで、図のような表を提示していた。
これは、2つの事象を関連付けた、L型マトリックスと呼ばれる図である。

 

http://blog.isovocabulary.com/03_qc/post_184/ では、マトリックス図について、次のように解説している。

 

==========
問題を明確化する方法として、行に属する事象と列に属する事象により構成される二次元的な表に着目して、以下のような手法として用いられます。
* 表の配列から問題の所在や問題の形態を探る
* 表の配列から問題解決のための着想を得る
===========

 

 登場人物の行動と心情
 人物Aと人物Bの比較
など、教科書の手引きでよく提示されるのは、上下に仕切ってまとめる表だから、一次元の思考整理。
 討論は、むしろ一次元で行わないと、論点がずれてしまう。

 

 上下にまとさせるだけでも大変だと思ったら、L型マトリックスによる二次元の思考整理まで文科省は望んでいるということか。

 

 マトリックスには示せないが、縦横で仕切った4ますをイメージしてください。

 

(1)今回の学力状況調査の「人数」と「難易度」の掛け合わせ

 

 A:多人数で遊べ、しかも容易な遊び
 B:多人数で遊べるが、難しい遊び
 C:少人数しか遊べないが、容易な遊び
 D:少人数でしかも難しい遊び

 

 

(2)「海の命」の太一の心境
  「父の復讐」と「与吉じいさの教え」の掛け合わせ。
  Aが難しいから、BをとるかCをとるかで葛藤していることになるか、

 

A:父の復讐を果たし、与吉じいさの教えも守りたい
 B:父の復讐を果たせなくても、与吉じいさの教えを守りたい
 C:父の復讐は果たすが、与吉じいさの教えを破ってしまう
 D:父の復讐も果たせず、与吉じいさの教えも守らない 

 

(3)「ごんぎつね」の「ごん」の行動
 「つぐない」と「ばれたら殺される」の掛け合わせで、

 

 A:殺されることなく、つぐないを果たしたいが、
 B:「殺されてもいいから、つぐないを果たす」か
 C:「殺されるのを恐れて、つぐないをやめるか」で迷っていると言えるだろうか。

 もちろん、D:「殺されて、つぐないもできない」では悲しすぎる。
 
 「ごんぎつね」の場合は、「ごんは兵十に気づいてほしかったのか」という一次元思考でよいのかもしれないが・・。
 

 

 実際の教科書教材で、L型マトリックスがどう使えるかを考えてみたい

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January 23, 2013

「海の命」の「の」の検討

ギャグみたいなタイトルになってしまった。

 

「海の命」の教材分析を「の」に絞って行う。
 とりあえず「デジタル大辞泉]による「の」の解説。

 

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/171157/m0u/%E3%81%AE/

 

「海の命」の用法なので、連体修飾格の解説だけでよい。

 

1 連体修飾格として諸種の関係を表す。
㋐所有。…の持つ。…のものである。「会社―寮」

 

「海の持っている命」

 

㋑所属。…に属する。…のうちの。「財務省―事務次官」

 

「海に属する命(海に含まれる命)」

 

㋒所在。…にある。…にいる。「大阪―友人」

 

「海にある命」

 

㋓行為の場所。…における。…での。「異国―生活にも慣れた」

 

 これは該当しない

 

㋔時。…における。「夏―蝉(せみ)」

 

 これも該当しない

 

㋕作者・行為者。…の作った。…のした。「校長―話」

 

 「海が作った命」

 

㋖関係・資格。…にあたる。…としての。「友達―田中君」
 たぶん該当しない

 

㋗性質・状態。…のようすの。…の状態である。「縦じま―シャツ」

 

 該当しない

 

 

㋘材料。…で作った。…を使っての。「木造―家」

 

 海でできた命? 該当しない

 

㋙名称・人名。…という名の。…という。「富士―山」「三河―国」

 

 海という名の命

 

㋚数量・順序。…番目の。「多く―船」

 

 該当しない

 

㋛対象。…に対する。「反乱軍―鎮圧に成功する」
該当しない

 

㋜目標。…のための。「お祝い―プレゼント」
 該当しない

 

㋝比喩。…のような。「花―都」
「海のような命」

 

 

該当したもののみ修正して再掲する。

 

 

㋐所有 「海が持っている命」
㋑所属 「海に含まれる命」
㋒所在 「海という場所にある命」
㋕行為者「海が作った命・海がもたらした命」
㋙名称 「海という名の命」
㋝比喩 「海のような命」

 

 

ここまで調べても難しい。

 

①「海の中にある様々な命」

 

のことか

 

②「海そのものの命」

 

なのかも定かでない。まだまだ分析が足りない。

 

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December 04, 2008

「海のいのち」の絵本は教科書と違う

Photo 小学6年生の国語のメイン教材とも言えるのが「海のいのち」(立松和平)である。
難教材なので、以前も2回ほど書いた。

 

◆「海のいのち」(立松和平)は、共生の物語か
http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2008/08/post_edbc.html

 

◆「海の命」(立松和平)をどう読むか?
http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2008/08/post_6a7f.html

 

 例えば「海の命」をどう読むかを考えても、答えは様々だ。

 

1)尊敬する父親と同じ道を歩もうとする作品
2)尊敬する父とは違う道を歩もうとする作品
3)尊敬する父親を奪ったものを追い求める作品
4)さまざまな人に出会い、成長していく作品
5)自然の偉大さに触れる作品

 

 「自然界の共生について考えさせる作品」とも言えるが、これには異論もある。
 そのことは以前も書いた。
===================
 それにしても「共生」か。
◆「千びきに1ぴきでいいんだ。千びきいるうち1ぴきをつれば、ずっとこの海で生きていけるよ」
◆太一は村一番の漁師であり続けた。千びきに1ぴきしかとらないのだから、海のいのちは全く変わらない
といった叙述に、「共生」の思想が読み取れる。
 しかし、そもそも「捕るー捕られる」「食うー食われる」「殺すー殺される」という関係しかない「人間ー魚」に「共生」の思想があてはまるのだろうか。
 一方的に魚を捕まえて殺して食しておきながら「千匹に1匹でいい」から「共生」だというのは、あまりにエゴイステイックな話ではないだろうか。
===================

 

・・・さて、「海の命」の絵本(ポプラ社)を入手した。
 もし、この絵本は、教科書と異なる部分がある。
 与吉じいさの言葉だ。

 

「わしはもう年じゃ。ずいぶん魚をとってきたが、これ以上とるのも罪深いものだからなあ。魚を海に自然に遊ばせてやりたくなっとる」

 

 ここは東京書籍も光村出版も次のようになっている。

 

「わしはもう年じゃ。ずいぶん魚をとってきたが、もう魚を海に自然に遊ばせてやりたくなっとる」
 
・・・「これ以上とるのも罪深い」
 この言葉があれば、魚を捕ってその命の犠牲の上に人間が生活していることがよく分かる。

 

1)漁師は海の命の犠牲の上に生きている=人間は、他の命の犠牲の上に生きていることを訴える作品
2)人が生きていく上で無意味な殺生をしてはならないことを訴える作品

 

ということになる。ならば「共生」のキーワードも浮かんでくる。
 「いただきます」の精神と同じで、常に「罪」の意識を感じながら魚を捕り、魚を食べろというメッセージだ。
 逆に、この言葉がない教科書版では、「千匹に一匹でいいんだ」という意味が伝わりにくい。漁業で生計を立てているなら少しでもたくさん捕って大漁を喜ぼうと考えるのが当たり前だからだ。
 クエを捕まえようとしていた太一が最後にやめた。
 それは、父親の敵を討ちたいとか大きい魚を捕りたいといった単なる我欲でクエを捕るのは罪深い行為なのだと気付いたからということになる。
 そのように読ませるには、与吉じいさの「これ以上とるのも罪深い」の言葉は、無視できない。

 

教科書版の「海のいのち」では、クライマックスが分かりづらい。
太一の気持ちが、がらっと変わったところが、分かりにくい原因の1つにページレイアウトがある。
 東京書籍版。
=======================
・・これまで数限りなく魚を殺してきたのだが、こんな感情になったのは初めてだ。この魚をとらなければ、本当に一人前の漁師にはなれないのだと、太一はなきそうになりながら思う。
 水の中で太一はふっとほほえみ、口から銀のあぶくを出した。もりの刃先を足の方にどけ、クエにむかってもう一度えがおをつくった。
 「おとう、ここにおられたのですか。また会いに来ますから」

 

      (次ページ)

 

 こう思うことによって、太一は背の主を殺さずにすんだのだ。大魚はこの海のいのちだと思えた。
=====================
 ページの切れ目が意識の区切れ目になるから、「こう思うことによって・・」の前、「おとう・・」のセリフが一番盛り上がるように読めそうだ(私はそうは思わないが)。

 

 ちなみに光村版も、「こう思うことによって~」の部分から次のページになるが、見開きページの中の改ページなので切れ目の意識は弱い。

 

 さて、入手した絵本の場合は、どうかと言うと・・。
====================
・・これまで数限りなく魚を殺してきたのだが、こんな感情になったのははじめてだ。この魚をとらなければ、ほんとうの一人前の漁師にはなれないのだと、太一はなきそうになりながら思う。

 

 (次ページ)

 

 水の中で太一はふっとほほえみ、口から銀のあぶくを出した。もりの刃先を足の方にどけ、クエにむかってもう一度えがおをつくった。
 「おとう、ここにおられたのですか。また会いに来ますから」
 こう思うことによって、太一は背の主を殺さずにすんだのだ。大魚はこの海のいのちだと思えた。
=====================
 こちらは、私の解釈するクライマックス(ピナクル)と一致している。
 太一は「水の中でふっとほほえみ」の時点で、すでにクエを殺さない・殺さない自分なりの理由を考えついた、という意味で考え方がガラッと変わっている。直前の「なきそうになりながら思う」と比較すると、ガラッと変わったのは、「なきそう」と「ほほえみ」の間の行間だということが分かる。
 絵本では、ページをめくったところで、場面が変わる・人物の意識が変わるという形になっている。教科書はその変化が分からなくなっている。
たしかに「おとう、ここにおられたのですか」の一言は決定的でクライマックス(ピナクル)ともとれるが、意識の変化・太一の葛藤はもう終わっている
 むろん、絵本が原本と言えるかどうかは分からない。
 絵本作家(伊勢英子さん)のページ割が、立松和平の意向と一致していつのかどうかは、我々には分からないからだ。
 絵本版を参考にすると、「ほほえみ」の直前で意識が変わったことがよく伝わる、という程度の補足になるだろうか。

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August 09, 2008

「海の命」(立松和平)をどう読むか?

 石原千秋著の『国語教科書の思想』(ちくま新書)を買った。 ひょっとしたら以前も買ったかもしれないが、とにかく買った。
 パラパラ見たら、6年教材の『海の命』の記述があり、そこだけでも価値があると思ったからだ。
 「海の命」の解釈がどうしてもできなかった自分には、次のような記述だけでも衝撃的だった(P101)。
==========================
父親の命を奪った偉大なものへの挑戦によって成長する物語。
あの宮崎駿のアニメ『天空の城 ラピュタ』にも採用された話型である。
そう、形を変えた象徴レベルでの父親殺しの物語である。
==========================
 そのような読み方があるのだと初めて知った。
 「海の命」をそのような典型で読むのだと初めて知った。
 これが石原氏の専門ジャンルである「構造分析」だ。
 それにしても
「父親の命を奪った偉大なものへの挑戦によって成長する物語」 とは、実に的を得た表現だ。この作品の本質を見事に抽出している。

 

 ところで、「海のいのち」は、直接的な父親殺しの作品ではない。
 象徴的な父親殺し・精神的な父親殺しというのは、「親を乗りこえる」という意味だ。
 「親を乗り越える=親への挑戦」ということになると、この作品は2つのターゲットを持つことになる。
◆偉大な父への挑戦
◆その命を奪ったクエへの挑戦
 クエを捕まえることは、イコールあの偉大な父親を越えることを意味するわけだ。
 クエを捕まえなければ一人前の漁師になれない、という太一の独白もある。
 太一の父はクエを捕まえようとして命を落とした。
 そのクエを捕まえることで、太一は父親を越えられる・一人前の漁師になれると思っていた。
 しかし、クエを捕まえる直前になって太一は迷う。
 そして、あれほど捕まえたかった父のカタキなのに、最後には捕まえるのをやめてしまう。
・・・椋鳩十の『大造じいさんとガン』みたいだ。
 「なぜ、大造jじいさんは銃を下ろしガンを撃つのをやめたのでしょう」と同じように
 「なぜ、太一はクエを捕まえるのをやめたのでしょう」
という発問が成立する。
 クエを捕まえなかった太一の心境を考えていたら、菊池寛の「恩讐の彼方に(青の洞門)」とも重なってきた。
 父親殺しの犯人は、今は出家して世の中のために洞門を掘っている。
 敵討ちにやってきた息子に洞門を掘り終えたら死んでもいい、工事が終わるまで待ってくれと頼む。
 20年も及ぶ工事を貫徹した姿に心を打たれた息子は、結局は敵討ちをやめる。
・・・このような『恩讐の彼方に」の結末は、殺されたがっているように見えたクエの様子に、殺す気をなくす太一と重なってくる。
 石原氏は「海の命」を「偉大なものへの挑戦によって成長する物語」と括った。
 偉大なものに出会い、戦意喪失したというか、クエを捕まえることの無意味さを知ったということなのだろう。

 

 ところで、比喩としての「父親殺し」とは、父親と同じ道を歩まなかったという意味だ。
 父親はクエを捕まえようとした。
 もし、太一があのままクエを捕まえていれば、父と同じ道を歩んだことになるが、クエを捕まえなかったのだから父と別の道を歩んだことを意味すると石原氏は言いたいのだろう。
 太一は、最低限の魚しか捕まえない漁の仕方を与吉じいさんから学んだ。
 クエを殺さなくても生きていけるなら、わざわざクエを殺す必要もない。
 太一は与吉じいさんの元で漁を学び、父親とは異なる漁師の生き方を学んできたということなのだろうか。
 よく分からない。
 石原氏の「父親殺し」を知って、気になったのは次の点だ。
=====================
 大人になった太一の生き方は父親と同じか、違うか。
=====================

 

 「海のいのち」って要するにどんな話なのだろう。

 

1)尊敬する父親と同じ道を歩もうとする作品

 

2)尊敬する父とは違う道を歩もうとする作品

 

3)尊敬する父親を奪ったものを追い求める作品

 

4)さまざまな人に出会い、成長していく作品

 

5)自然の偉大さに触れる作品

 

 PISA型の読解力は、確かな読みの上に自分なりの読みを主張することだから、あえて1つに絞ることもなく、自分らしい読みを主張すればいいのだろう。
 石原氏も同書の中で、文学作品はさまざまな読みが可能であるとを知ることに意味があるのだと述べている。
たった1つの解釈絞り込むことは石原氏の本意でもない。
 それを承知で言うならば、小学生にとって、この作品を「少年が父親と異なる生き方を選んだ話=精神的な父親殺しの話」と捉えるのは難しい。
単純に「漁師の息子が父親と同じ一人前の漁師に成長した」と捉えるのが普通だと思う。
 子供たちの意識の中に「親を乗り越える=親の生き方の否定」という概念が確立していないからだ。もちろん対象は6年生だから、そろそろ「親の否定」を学ぶべき時期なのかも知れない。

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