January 11, 2024

「道徳的発問」と「哲学的発問」

かつてのブログで書き残したことがある。

苫野氏は「はじめての哲学的思考」の中で、「~せねばならない」「~してはならない」という「命令の思想」から脱却せよと言う。

「人を殺してはならない」という命令でさえ、実際にはケースバイケースなのだから、絶対に正しい命令など存在しないという考え方だ(いついかなる時も絶対に守らねばならない命令を「定言命法」と呼ぶそうだ)。

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「いつ、いかなる時も、困っている人に手をさしのべよ」

「命令の思想」はそう主張する。

それに対して次のように考えてみよう。

「どのような条件を整えたなら、人は困っている人に手をさしのべようと思うのだろう?」

このような考え方を、ここでは「条件解明の思考」と呼ぶことにしたいと思う。P142
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 だから、次のように発想を変えよという(私が改作した)。

◆人に思いやりを持つべきだ

→「どうすれば人は人を思いやれるだろう?」

◆苦しんでいる人に関心を持つべきだ

→「どうすれば人は無関心が関心に変わるんだろう」

◆震災ボランテイアをやるべきだ

→「どのような条件の時に人は震災ボランテイアをしたくなるんだろう」


◆いじめは絶対にダメだ

→どんな時に人はいじめをしてしまうんだろう

 どんな条件を整えたら、いじめをなくすことができるんだろう

 

 「命令の思想」ではなく「条件解明の思考」の方が、現実的な力強い哲学思考だと苫野氏は言う。
 

 「すべき」かどうかを問うよりも、どうすればよいか条件を考えさせるアプローチの方が、道徳的であることが分かる。


※「命令の思想」を持つ人は、自分の正義を振りかざして、それに従わない人を「なぜ、○○しないのだ」と断罪する。
 ヘーゲルは、そうした人を「徳の騎士」と呼んだそうだ。

 現代日本でいうところの「マスク警察・自粛警察・私人逮捕系ユーチューバー」である。

 これ、めちゃ多いじゃん!
 
でも、それはかえって非道徳的な行為になりかねない。「徳の騎士」、それは、正義を笠に着て他者を傷つける。ひどく独善的な人間なのだ。P143

・・・道徳的であろうとするあまり、独善的になることのないよう注意したい。道徳の授業で「徳の騎士」を育ててはいけない。

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June 29, 2023

道徳授業を「共感性」で考えてみた!

 『子どもを呪う言葉・救う言葉』を読んで、これまで意識したことはなかった「共感」について考えてみた。
 高齢者に投資詐欺を行った少女マイの事例に「人の気持ちが分からない悲劇」という見出しがついている。
 共感能力が低く、被害者の気持ちを想像するのが難しい少女マイは、内省が深まらなかった。心配性の祖母の過保護・過干渉によって、同年代の子たちとの関りが不足し、共感性が育つ機会が奪われてきたことが原因の1つだ。
共感(他者の気持ちが自分のことのようにわかること)の前提には2つあると言う。
(1)「人の感情を正確に認知できる」
・・目の前の人が怒っているのか、泣いているのかといった、感情を表情から読み取って認知すること。
(2)「人の感情を正確に推測できる」
・・笑っているけれど、悲しい。冷静にしているけれど、怒っている。認知に基づきながら、相手の気持ちを推測できることが必要。
◆共感性はさまざまな人とのリアルなコミュニケーションから育まれます。ちょっとしたひと言で傷ついたり、ケンカになったり仲直りしたりと、対人関係上の失敗も共感能力を高めてくれます。普通は幼少時に小さなトラブルをいくつも体験しながら、共感性を育みます。自分の言動で相手がどう思うのかを考えることができるようになるのです。ところが、マイはそうした経験ができないままに育ってしまいました。(中略)
マイに限らず、こうした窃盗や詐欺を行う非行少年・犯罪者は共感性が低い傾向があります。「騙されるほうが悪い」と言って、被害者の気持ちを考えようとしません。P177-178
 
 少女マイの解説を読んで、何人かの子供の顔が浮かんだ。
 注意しても響かず、嫌がっている友達の気持ちが分からず、自分の感情の赴くままに行動する子供たち。
「事前予知能力の欠如」も感じるが、やはり「共感性の欠如」かなあと思う。
「共感性」を学ぶ手順は、次のように書いてある。
 これは、まさに 道徳の授業のステップのようだ。
◆最初は「順番を守るように言われたからそうする」ということでいいのです。ルールを覚え、無用なトラブルを起こすことなく過ごせるのが第一段階です。次に、共感性に基づく判断ができることが重要です。「私が順番を守らないと、ちゃんと並んでいる人はどういう気持ちになるだろうか」と考えることができ、自分でより良い選択ができるということです。
◆もし子どもが「だって○○ちゃんはいつも自分勝手だから、バカって言いたくなるのも仕方ないよ」と話したら、「そう思ったんだね」と言い訳を否定せず聞いてあげましょう。
たくさん話しているうちに自分で「でもあの言い方はちょっとひどかったな。傷ついていると思うから、明日あやまろうかな」と気づくかもしれません。自分ひとりでは内省が深まらないようなら、「○○ちゃんはどう感じたかな?」というように促してあげるのがいいでしょう。親の考えを言うのではなく、本人に考えさせてあげることです。P185
・・・形だけの「反省」、口だけの「反省」では何の意味もないから、「内省」をさせよと言う。
◆「反省しなさい」という言葉は抑圧を生みます。その子が抱えている不満を聞いてあげることなく一方的に反省を押しつければ、不満はどんどん蓄積し、いずれ爆発するでしょう。
繰り返しますが大事なのは内省です。自分の行動や考え方を振り返るのが苦手な子に対しては、「どうしてこういう行動をしたの?」「そのときどう思ったの?」と問いかけて内省を促します。「ここが良くなかったよね」「こんなことしたら、相手は怒るに決まっているよね」などと指摘するのではなく、本人に気づかせてあげてください。(P188)
そして、自分の気持ちに向き合う方法として「ロールレタリング」を紹介している。①自分から母親、②母親から自分、 ③自分から母親・・のようにすべて自分1人で役割を入れ替えて手紙のやり取りをする。
道徳授業でも、主人公の気持ちになって手紙を書くという活動がよく行われる。
登場人物にお手紙を書くという道徳の活動も、ロールレタリングの1つであり、「共感力」を育む手法の1つということだろうか。
そもそも道徳授業って共感力を育てることか、という気持ちを強くしたのでした。
Hikou

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May 16, 2023

授業は「つながり」が大事だ

先にも書いたが、先週は4年の道徳で「思いやりって」の授業を参観した。
「思いやり」が大事なことは小学校3年生までで学んでいる。
「困った人がいたら助けよう。」
ぐらいの価値は分かっているので、今回はもう一歩上を狙う。
それが
「ただし、本人が望んでいないことまで手伝う必要はない」
「ただし、相手が望むかどうか確認することも大事な思いやり」
ということだ。
「親切」が「お節介」になってはいけない。
これは次回の道徳「絵はがきと切手」~絵葉書が料金不足だったことを伝えるかどうか~で
友情といえば
「仲良くする」「助け合う」「喧嘩しない」
ぐらいの価値は分かっているので、今回はもう一歩上を狙う。
それが、、
「ただし、言いにくいことでも、本人のためになることはちゃんと伝える」
「ただし、嫌われるかどうかではなく、相手のためになるかどうかを考えて行動するのが真の友情」
ということだ。
「仲良し」を維持したいために「忠告」をためらうようではいけない。
ということで、「思いやりって」と同じ流れの授業ができる。
「○○」ってどんなことを聞いてそれなりの意見が出たところで、
資料を読み、「××××」という新たな「○○」の意味をインプットしていく。
「同じ流れ」という意識を持って授業できるかどうかは、本人の準備次第である。
毎回、「明日の道徳の授業をどうするか」で前日に準備をしていては、うまくいかない。
先を見越すと、子供にとって負担のない授業ができる。
無論、教師にとっても負担軽減になる。

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「思いやり」とは、どんなものでしょう?

4年の道徳(光村図書)で「思いやりって」の授業を参観した。
授業者が、指導書の流れ通り、冒頭に次のように問うた。
◆「思いやり」とは、どんなものでしょう◆
・・・答えづらい問いだが、子供たちはいろんな意見を出した。
「助け合い」「支える」 のような単語で置き換えた意見と
「困っている人を助ける」「お年寄りの人に電車で席を譲る」のような対象を例示した意見があり、
「誰に」を加えると、明らかに具体的になることがよく分かった。

参観途中で教室を抜け出して、子供たちが出した意見を職員室でジャムボードにまとめてみた。
Omo 

「誰に」の段と
「何をする」の段を組み合わせれば、具体的な場面がたくさんイメージできる。
子供の意見の中で少し異質だったのが
◆相手の気持ちを考える◆
で、これが本時の資料につながっているので、3段目に位置させた。
そして、3段目に、本時で扱う「見守る」を赤で加えた。
資料は,良かれと思ってやってあげることが必ずしも本人のためとは限らないので、本人の意思を尊重しようということを提示している。
これまでの「進んで思いやりのある行動をしよう」という「思いやり」に、「見守る」という新たな概念をインプットするような感じだ。
職員室から教室に戻って、振り返りの感想を書かせる前に画面を提示させてもらった。
今日の授業では、みんなが考えた「思いやり」以外に、「見守る」ことも「思いやり」だということを学んだんだねと解説した。
親切はありがたいけど,相手がしてほしいと思っているかどうかは確認しないと分からないからね。
 
※我々の仕事でも、自分が良かれと思ってしている支援を本人が望んでいないこともある。
せっかく本人がやる気になっているのに余計なお世話で水をさしてはいけない。
本時の資料は、まさにこの点を提言していた。

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November 06, 2022

道徳の思考過程 ~アウフヘーベンしようぜ~

子供は、授業する前から、そこそこ道徳的な発言をする。
たとえば、「不公平は良くないよ。差別はいけないよ」ぐらいのことは最初から分かっている。
だからこそ、
◆「では、今日からは給食は全員同じ量にします。減らすのも増やすのも禁止です。これが公平だね」と決めたらどうなるか。
◆「男女平等だからオリンピックを男女一緒にしよう」と決めたらどうなるか」
などと、子供の既成概念を打ち崩すような意見をぶつけて、深く考えさせる。
こういう否定があって、子供は初めて真剣に考える。
・・・結局、調べ足りなくて個人的な見解に過ぎないのだが、これが、ヘーゲルの弁証法だ。
Å:命題(テーゼ:正)・・・・・・・真理として提示される考え
B:反対命題(アンチテーゼ:反)・・矛盾や否定
C:統合命題(ジンテーゼ:合)・・・アンチテーゼによって示された矛盾と照らして修正されたもの。
正・反の対立を通して新しい考えに引き上げることをアウフヘーベン(止揚)と言う。
上記の場合、
「差別はいけないってみんな言うよね。でも男女差や体格差を無視したらそれもいけないよね。この矛盾を解決するにはどう考えたらいいか」について案を出し合うのだ。
「不公平や差別はダメ」といった概念に、付帯条件や例外規定を加えることになるだろうか。
これが「アウフヘーベンしようぜ!」ということだ。
◆確かに差別は良くないが、男女差や年齢差、体格差は存在する。それらの「差」によって不利益をこうむる人が出ないように、相互理解を深めることが大事だ。互いのハンディキャップを埋めるのは「差別」とは言わない。
・・・もちろん子供はこんなに整然と言わない。
また、この見解がベストでもない。
みんなで、(その学年相応でいいから)、意見を言い合って、よりよい考えを出す。
あるいは個々の最終的な見解をもつ。
「正解」はないから「納得解」を探る。
そんな授業が「議論する道徳」なのだと自分は勝手に解釈している。
※カントは「二律背反」という言葉を使う。これが同じなのかどうかは全然自信がありません。
そして「価値葛藤(モラルジレンマ)」のルーツがここにあるのかどうかも分かりませんでした。
モラルジレンマは、「安易に第三の方策を考えない」と聞いたことがあるので、真逆かもしれません。

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October 26, 2022

具体と抽象・・・エピソードと教訓

「イソップ童話集」は、「イソップ寓話集」です。岩波文庫は「イソップ寓話集」と書いてあります。

イソップ寓話には、いろんなお話があります。

◆アリときりぎりす◆うさぎとカメ◆北風と太陽◆おおかみ少

聞き慣れない言葉ですが、「寓話」とは、お話を通して教訓を伝える作品、「寓喩」を使ったお話のことです。

お話そのものが、ある教訓を伝えるための「比喩」 になっているという意味です。

「寓喩」世界大百科事典内の寓喩の言及【アレゴリー】より

すなわち,ある事物を,直接的に表現するのではなく,他の事物によって暗示的に表現する方法の意であるが,この表現方法によって創作された文学作品あるいは造形芸術作品を一般にアレゴリーと称する。寓意,寓喩,風喩ともいう。

アレゴリーとは、抽象的なことがらを具体化する表現の一つで、おもに絵画、詩文などの表現芸術の分野で駆使される。

意味としては比喩(ひゆ)に近いが日本語では寓意、もしくは寓意像と訳される。詩歌においては「諷喩」とほぼ同等の意味を持つ。

また、イソップ寓話に代表される置き換えられた象徴である。(Weblio より)

用語の定義にこだわると深みにはまるので、飛ばします。

宗教の説法などにも「例え話」がたくさんあります。

http://j-soken.jp/category/ask/ask_7/ask_7_6

・・・「○○の心がけを大事にせよ」と説かれてもピンとこないので、例え話や具体例をあげて、なるほど確かにそうだなと納得させるのが説法です。

話が上手な人は、例えがうまいのです。詐欺師も例え方がうまいのでまんまと騙されます。

兼好法師の「徒然草」も仁和寺の法師の段が「先達はあらまほしきことなり」で結んでいたりするように、「このような失敗談から我々は〇〇を学ばねばならない」と説かれた話が多いです。

道徳の授業も、事例を通して「徳目(指導内容)」を考えさせます。

「思いやりを大切にしよう」と唱和させるだけの授業は「道徳」とは言いません。

「正直が大事だね、思いやりが大事だね早合点はダメだね」

・・・イソップ寓話や日本昔話の読み方に慣れていれば、いろんなお話には、その奥に言いたいことや学べることが隠されているのだと十分理解できます(もちろんそのような奥のないお話もたくさんあります)。

 

◆よかったね、どうしてこんないい結末になったのかな?

◆あらあら残念な終わり方だったね、どうしてこんなひどい結末になったのかな?

を考えさせれば、それを「主題」と呼ぶか「教訓」と呼ぶか「自分なりの発見」と呼ぶかは別にして、作品から何かメッセージを読み取ることができます。

無理に教訓めいたものを読み取る必要もないし、教師が感じた教訓を押し付ける必要もありません。ただ、小さい頃から、「このお話から何を学べるか」という視点で本を読む習慣をつけておいて損はありません。

イソップ寓話の教訓は特定できますが、通常の物語作品の主題は1つとは限りません。

読者の人生経験なども関わってくるので、読者によって作品の受け止め方も違います。

一つの「正解」の周りには許容される解釈があり、それを鶴田清司氏は「周解」と呼びました。

そして、「周解」を超えて拡大解釈してしまうことを「曲解、誤解」と呼びました。

石原千秋氏は、学者が提唱する新たな解釈は、曲解に近いものが多いと言います。ありきたりの解釈では誰も注目しないからです。したがって、専門家である学者のトリッキーな曲解は解釈の域を逸脱しているかもしれないという冷静な判断は持っていたいです。

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October 23, 2022

問答無用? 〜Whether you like it or not〜

古い話だが、平成30年11月26日の「ラジオ英会話」の内容に感激した時の覚書がある。

◆Rika, I don’t like cleaning the classroom every day. It’s so boring.
 
 リカ、僕は毎日、教室を掃除するなんて嫌だよ。とてもつまらないし。

◆Whether you like it or not isn’t important.
 We have to do it. It’s part of being a student at this school.

 あなたがしたいかどうかなんて問題(重要)じゃないのよ。私たちはそれをしなければならない。それはこの学校の生徒であることの一部なんだから。

◆In the U.S., students don’t have to clean the classroom.
Professionals do it at night.
 アメリカでは、生徒は教室を掃除しなくてもいいんだ。専門の業者が夜やってくれるからね。

◆Well, that’s the American way, but we are in Japan.
This is the Japanese way.
 それはアメリカのやり方だけど、私たちは日本にいるのよ。これが日本のやり方なの。

Whether you like it or not あなたがそれを好きかどうかは
Japanese way 日本のやり方

https://fujiijuku.net/radio-english/2018-11-26-l156/

<op:b>「あなたが好きか嫌いかは問題ではない。」
「アメリカではどうかは関係ない」
「これが日本のやり方なんだから。」

・・・こうした言い切りができることは、すごく大事で、保護者も学級担任は、ビシッと言わないと統率が取れない。
いつでも「問答無用」では、不満を抱かせるが、ダメなものはダメ、決まりは決まりと毅然とした態度で対峙する力強はほしい。

以前は「ダメなものはダメ」と解釈した。
今は「分岐させる箇所が違うのだ」と解釈している。

◆「掃除がしたいかしたくないか」は、分岐にならない。
 分岐が必要なのは「あなたは本校の学生かどうか」である。
 そして、「本校の学生」であるならば順次処理で「掃除をする」しかない。「やる・やらない」の分岐はない。

 あるいは、分岐が必要なのは「ここはアメリカか、日本か」である。
 そして「ここが日本」であるならば順次処理で「掃除をする」しかない。「やる・やらない」の分岐はない。

分岐点を間違えてはいけない。
分岐点のすり替えにごまかされてはいけない。

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子供の意見を類型化する

討論のさまざまな意見を「類型化」することがある。
「類型化」そのものは決して目新しいワードではないが、意識していない教師も多い。

本来、指導案にある「予想される子供の反応」は類型化していくつか書かれるべきものだが、教師に類型化の自覚がないと、同じ意味なのに表現が異なるだけの意見が列挙してある。

子供の意見を板書するなら、類型化して書けばよいのに、その自覚がないと、同じような意見がずらりと並んでしまう。
発言した子供の意見を板書したりしなかったりすることに躊躇して、ほぼ同じ意見なのにずらずら全部板書してしまうケースを何度も見てきた。
発言順に板書すると、あっちのタイプだったりこっちのタイプだったりバラバラになる。
むろん、子供の意見をずらーっと板書した後で、ABCのようにタイプ分けさせる展開もあってよい。それは子供に類型化させる授業だから、それはすごく知的だ。

あるいは板書する位置を意図的に変えて、出された意見を類型化して示す授業もある。

道徳の授業で、ある人物の行動を見て心が動く主人公の心情を問うことがよくある。
この場合は類型化すると3つになる。

A 後悔「自分の行為への反省」・・過去の自分
B 感動「あの人はすごいな」・・・他者への憧れ
C 決意「これからは○○しよう」・・未来の自分

こうした3つの類型の自覚が教師にあれば、子供の発言を聞いてどのタイプが多いか、どのタイプが出ていないかで授業の組み立てを考えることができる。あるいは、あるタイプの意見が出るまで待つことができる。

いきあたりばったりの授業・思いつきの発問では、類型化できるはずがない。

類型化できるということは、正解が1つではないということだから、子供の多様な思考を促すこともできる。

気の利いた子が意見を言って、「はい、おしまい」とは違う授業が展開する。

あるいは、一見的はずれな意見の中にある、すぐれた発見を教師がうまく摘出する授業が展開する。

子供の意見を、どう予想し、どう類型化するか、授業づくりの基本として伝えていきたい。

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October 22, 2022

「道理」より「誠意」

熊本での学習会に参加した際、会場である大麻文化会館に「誠」の文字が展示されていた。

解説もあった。


大変困難な問題に遭遇したとき誠の心をもって解決に当たっときが一番強く勝利をすることができ 策略をもって勝利をしたとき勝つことはできても必ず後日には打ち返されて長い年月の間に負けることになる 大麻唯男訓
(大麻氏は玉名町出身の昭和の代議士である)

誠実に対応することの大切さを、今回の合宿で何度も何度も感じた。
やはり、相手の心を引きつける最後の決め手は、道理よりも誠意だ。

セミナーを開催すると、ついつい「戦略」を講じてしまうが、策略を立てていては、一度は人集めできても二度目はないぞと警告を受けたような思いだった。

価値ある教育活動をさらに進めたい

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「哲学を語れ」とは

「リーダーは哲学を語れ」と聞いたことがある。「哲学」という言葉を使われたが「ビジョンを語れ」とよく似ている。
この場合の「哲学」は「生き方」「信条」」といった意味合いだろうか。
学校だよりなど、さまざまな原稿を書く機会が多かったが、「○○がありました」と出来事を書くだけでは意味がないと言われた。

たしかに各校の学校新聞を読むと、名言の引用が多いが、引用個所をどう味付けするか、どう意義付けるかに、引用者の「哲学」が問われていると言ってよいだろう。

ちなみに、大人が思うほどスポーツネタは小学生にはマッチしない。

「哲学」と言われると恥ずかしいが、自分も原稿や朝会のあいさつでは、しっかり吟味して思いを伝えるようにしてきた。

普遍性のある話はいつでも言えるので、できるだけ鮮度のあるタイムリーな話題を織り交ぜることを意識してきた。

講師の先生はご自身の過去の校長だよりを紹介された。

「急施紛更をもって速効を求むべからず」

伊藤博文の言葉で、「教育は急いで結果を求めるな、水がしみこむようにじっくりと」と諫めた言葉だそうだ。
こういう言葉が引用できる「博学さ」もうらやましいと思った。


さて、自分自身の哲学について考えていて、反省すべき点が見つかった。

言葉が人の心を打つのは、経験や実践に裏打ちされた時だ。
いくら自分がイチローの言葉を引用しても、相手には響かない。しょせんは受け売りであって自分の血肉ではないからだ。

経験が足りない者の言葉は軽い。
修羅場が足りない者の言葉は説得力を欠く。

自ら成長する努力を課していない者が努力を語っても、それは薄っぺらだ。

経験を語るから、聞き手の脳裏にイメージが浮かぶ。
脳裏にイメージが浮かぶから、聞き手の心に沁みる。

「自分の哲学を語れ」は、単なる言葉の問題ではない。
借り物の熱い言葉を語れという意味ではない。
言葉の奥にある自分の生きてきた道、生き様が問われている。

「哲学を語れ」は、「懸命に生きよ」「背中で見せよ」なのだ。

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