September 22, 2022

深く学ぶと「分からなくなる」が増えることもある。

道徳ワークシートで、「わかったこと」を書く場合がありますが、いつも「分かる」とも限りません。

授業を受けていくうちに分からなくなることもあるからです。

例えば、困っているお友達を助けようと思っていたが、本人が甘えてしまうから助けない方が良い場合。

どっちが正しいかは決まりません。

正解がないから、相手の意見を聞けば聞くほどどうしたらいいか分からなくなります。

その場合、「今日のわかったこと」は、「簡単には決まらないことが分かった」というようなスタンスになります。

モラルジレンマの資料は、むしろAかBかが簡単に決められないところに意味がありまず。

資料によっては、定型のワークが合わないかもしれません。

資料に応じて適切な振り返りをさせてください。

どの教科でも調べて終わりではなく、調べれば調べるほどわからなくなる奥の深さを伝えて欲しいです。

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「言わずとも分かれ」のジレンマ

ある古い文庫に、『冷えた天丼』と題した短いエッセイがあった。

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夜遅く夫が帰宅すると食卓に「冷えた天丼」が置いてあった。夫は、疲れて帰って来たんだから、せめて温めてほしいと思っている。でも、そんなことを口にするのはプライドに関わるから、口にしない。口にはしないが、不満をくすぶらせている。この男の愚痴に付き合った筆者が「冷えた天丼」が嫌なら「『温めて』と言えばいいのに」というと、彼は、次のように怒る。「言わずとも分かれ。言って分かられたってそれがなんなんだ、ってことなんだよ」

『男がいてもいなくても』久田恵(講談社文庫)1996年初版

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・・・「言わずとも分かれ」という気持ちはすごくよく分かる。

言われる前に自分で気づいて行動してほしいと思う。

この「やってほしいなら、ちゃんと言えばいいじゃん」と「言わずとも分かれ」の対立は、実はとても根が深い。

かつて、学年集会でも、集合してから静かになるまで教師は黙っているようにした。

「『〇〇しなさい』と注意されなくてもできるはずだから」というように話をした。

ただし、このやり方はハードルが高いので、意図が伝わらないと、いつまでも静かにならない。

結局、最後に大声で怒鳴るという失態に陥ることがある。

そもそも「注意したくないから注意しない」では、指導の放棄にすぎない。上記のエッセイの場合は、男と女のすれ違いだが、次のような対立に置き換えると、上司と部下のすれ違いになる。

◆「分からないなら聞けばいいじゃん」 と 「困っているんだから察して下さいよ」

◆「やる前に一言相談してよ」 と 「やられて困るなら事前に一言いっておいて下さいよ」

◆「そんなの常識だろ」 と 「常識と言われたって困ります。どこにも書いてないですよね」

上司と部下が、互いに一歩を踏み込まないと、ぽっかり穴が開いて大惨事を引き起こすことになる。

 「忖度」や「あうんの呼吸」に依存すると、痛い目に合う。久田氏のエッセイには、次のような場面も出てくる。

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会社から書類を持ち帰って夜遅くまで仕事をしていた夫が、受験生の息子の夜食を食べてしまった。息子が怒り、妻が夫に「謝れ」と言ったという週刊誌の記事を読んで、久田氏は次のように書く。

夫は家族のためにつらい思いで働いているのにと思い、妻は家族のために自分のやりたいいろんなことを我慢してやってあげているのにと思い、息子は親のために受験勉強をしてやっているのだぞと思い、お互いに感謝が足りない、愛が足りない、と不満だけをくすぶらせてどんどん関係を悪くさせていったのだろう。(P23)

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・・・「言わずともわかれ」のトラブルも、「お互いに感謝が足りない、愛が足りない、と不満だけをくすぶらせてどんどん関係を悪くさせていった」とリンクする。

「言葉が足りない」は、単に言葉の有無の問題ではなく、要するに「感謝や愛の有無」の問題だ。

部下に対して「困っていないかな・分からないことはないかな・初めてだけど大丈夫かな」という配慮があれば「分からないことがあったら聞けばいい・聞かない方が悪い」という横柄な態度にはならないはずなのだ。

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かば焼きの匂いは鰻屋の前で捨ててきた!

 鬱傾向の保護者は、いくら吐き出しても、すっきりできず、しばらくするとまた同じ内容について不満を言い始める。

 「過去を引きずって今を生きられない」という意味では、ひどく窮屈で残念だと思う。

 さて、禅に関して何冊か本を読んだ中の1つに一休和尚のエピソードがある。

 本はみつからなかったが、ネット検索で同じ内容がヒットした。

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逸話の多い禅僧のひとりに「一休禅師」がおれらます。ある日、お弟子さんと檀家の法事に参られる途中、たまたま「うなぎ屋」の前を通りかかったときの話です。店の中からおいしそうな鰻を焼く匂いが漂ってきます。

一休禅師は思わず「うまそうだな」といいました。それを聞いたお弟子さんは驚きました。

「自分たちのようなものでも、うなぎ屋の前でうまそうだな、というようなことを言うのはあまり行儀のよいことではない、ましてや一休禅師ほどの方がうまそうだなんて」何かを食べたいといった欲望を口に出すものではないと、弟子さんは思っていました。やがて、家に到着したところで、お弟子さんは「和尚さんは先ほどうなぎ屋の前で、うまそうだなとおっしゃいましたが、あれは出家者の身としてよくないことではないでしょうか」と尋ねました。

すると一休禅師は、「お前はまだそんなことを引きずっていたのか。わしはかば焼きの匂いなどは、うなぎ屋の前で捨ててきた」と言われました。

おいしそうな匂いにそそられる、それは誰にもある当たり前の感情です。花屋の前では美しいとながめ、お菓子屋さんの前で「おいしそう」と思うことは、その時の目の前のことを精いっぱい味わっていることであり、「今」を大事にすることです。しかし、ひとつのことに心を奪われたりしばられたりすると、「今」を見失ってしまいます。

https://blog.goo.ne.jp/sakamichi361/e/25369d6e0d674ab75728bd3f7915adfb

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・・・先の保護者のことがあって、このエピソードを思い出した。

 「今を生きる」よりも、「思いを、その場に捨ててきた」という言葉の方が強烈に残っている。

 いつまでも思いを引きずることの戒めだ。

 この場合の一休さんは「うまそうだな」というポジテイブな心の声だが、「悔しい」とか「ばかやろー」などのネガテイブな心の声などは、しっかり吐き出した方が後に残らないと思う。

 保護者の方々も、いつまでも過去にこだわらないで、今を生き、未来を志向してほしい。

 「過ぎたことでなく、今後のことを考えましょう」という呼びかけは、なかなか効き目がない。

このブログでしっかり吐き出したので、自分も、この保護者に罵声を浴びた辛い過去は振り返らないでおこう。

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ぼたんを植えたのは楽しむためで、怒るためではない。

貝原益軒の言葉を引用したが、もう1つ。

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教育書の「養生訓」「和俗童子訓」など、多数の本を著した、江戸時代の本草学者、儒学者として知られています。

今回は貝原益軒の生き方から寛大さ、視座の高さを学んでいきたいと思います。

ある日、外に出ていた間に、留守番の若者が隣の友達と、庭で相撲を取って、益軒が大切に育てていたぼたんの花を折りました。

若者は心配して、益軒の帰りを待ち受け、隣の主人に頼んで、過ちを詫びてもらいました。益軒は少しも腹を立てた様子がなく、

自分がぼたんを植えたのは楽しむためで、怒るためではない。」

と言って、そのまま許しました。

https://copel.co.jp/category2/ekiken-kaibara-precept/

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・・・もし、登校早々ケンカやトラブルが生じたら

「学校に来るのは楽しむためで、ケンカするためでもトラブルを起こすためでもない」

という意識で対峙したい。

しかし、これでは直接すぎるので、少し和らげて

「登校して、すぐにケンカやトラブルでは悲しいな。学校は楽しむために来るところだから、ケンカやトラブルが起きないよう気をつけようよ」

ぐらいで諭せたらよいと思う。

益軒の言葉は

◆そもそも学校は勉強するところであって、悪ふざけするところではない。

◆今は勉強する時間であって、ケンカする時間ではない

◆先生のお仕事は勉強を教えることであって、みんなを怒るためではない。

などとも言える。

ただし、正論を押しつけると逃げ場を失った相手は反感しか持たない。

諭し方を十分注意しないと、益軒の「寛容さ」とは真逆の対応になってしまう。。

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「自分には厳しく、他人には甘く」

江戸時代の儒学者である貝原益軒の言葉のメモ書き。

出典は不明です。

「 聖人をもってわが身を正すべし。聖人をもって人を正すべからず。凡人をもって人を許すべし。凡人をもってわが身を許すべからず」

現代語訳を自分で考える。

厳しい基準で己を律するべし。しかし、厳しい基準で他人を律するべからず。

緩やかな基準で他人を許すべし。しかし、緩やかな基準で己を許すべからず。

「自分に厳しく、他人には甘く」ということだが、ともすると、逆になりやすい。

だからこそ、自分には常に厳しい目を向けねばならない。

「努力した」などは、他人が評することであって、自分で言うほどのことはない。

「あなたが思う以上に、あなたはよく頑張っていますよ」と言えるのは、他人でしかない。

​ただし、自分を過度に追い込んでいる人には「緩やかな基準で己を許す」ように他人が声をかけて上げる必要がある。

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二宮金次郎の「率先垂範」

二宮金次郎について、そんなに詳しくないのだが、手元にメモ書きが残っている。

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 幼い頃に両親を亡くし伯父の家に預けられた金次郎は、愛読書の「大学」を読みながら山で柴刈りをして背負って帰るような生活をしていた。

 「お前が本を読むための灯油はない」と伯父に言われた金次郎は、空き地にアブラナを植え、油屋で灯油と交換した。

 「本を読む暇があったらもっと働け」と言われた金次郎は、空き地を開墾してコメを作り、ついには、その財を元手に伯父の家を出た。

  亡くなった両親の家に戻った金次郎は、人が踏み入れない土地を耕して農地を増やしていった

  真面目な金次郎の噂を耳にした下野の殿様から、荒れ果てた村の再建を頼まれる。

 家と農地を処分して新しい土地に赴いた金次郎は、村の真ん中に家を建て、以前と同じように農地を耕した。

 殿様から派遣された指導者だけれど、粗末な着物、徹底した粗食で、睡眠時間を削って働く金次郎の姿に、周囲は感化された。「自分らも働くしかない」と心を入れ替えた。心の荒れた村人も働く喜びを知り、村は見違えるように豊かになっていった。

 金次郎は後の世に「農政家」と呼ばれたが、彼の凄さは、説教で人を動かすのではなく、自ら働いて、村人に「共鳴」を起こした点にあった。

 参考「なんのために『学ぶ』のか」ちくまリマー新書

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 まさに「率先垂範」だ。

 説教では人は動かない。人を動かすなら、自分から動くことだと実感する偉人のエピソードだ。

 このまま語っても、現代の子供の心には響かないから、別途、作戦を練り、別の資料にもあたり、アレンジする必要がある。

 ただ、まずは、自分の行動が職員に「共鳴」を起こしているか、日頃の行いを反省し、「率先垂範」を意識していこうと思う。

※心理学では、人間には「辺報性」という性質があるそうだ。やってもらったら、お返しをしないと気が済まないというよな心理。スーパーで試食すると買わないと悪いかなと思うのは「辺報性」なのだとか。

◆自分の話を聞いてもらいたかったら、まず相手の話を聞いてあげること。

ということは

◆自分の望むように動いてもらいたかったら、まず相手が望むようなことをしてあげること

二宮金次郎が、村人の心を動かしたのは、「荒れた村を再生する」という点で金次郎が率先して動いたからだということが分かる。 

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September 09, 2022

「アプリシエーション」「最近接領域」・・・

手元に畿央大学の島恒生氏の講演メモがある(道徳)。

「アプリシエーション」「最近接領域」といったメモを見て、そうだったそうだったと思い出している。

自分の理解したままにメモを再構成してアウトプットしてみる。

したがって文責は竹田。※は、竹田の感想。

 

(1)従来は、マイナス志向の道徳だった。

これまでの道徳は「本学級の子どもは△△が欠けているから」という発想であった。

そして、主人公やストーリーのマイナス面(何が問題だったか・どうすればよかったのか)を考える授業展開であった。

しかし、これからは、「ない」ものを教えるのではなく、本来持っているものに気づかせる「プラス志向」の授業に取り組んでほしい。

子供たちが持っている能力や資質を引き出すことがeducate(教育)の本質。

「マイナス志向・・こうすべきである」の授業は、教え込みになりやすい。

「どうすべきだったか」と行動を問うても、分かりきった答えしか出ない。

どうすると良いかは、みんな分かっているから、「〇〇しなさい・〇〇しましょう」では道徳の授業にならない。

「〇〇すると、こんな気持ちになるね」が、道徳の授業。

 

(2)道徳の評価はアプリシエーション(appreciation=真価を認め、励ます評価)。

アプリシエーションでは、マイナスは指摘しない。子どもがいかに成長したかを積極的に受け止め、認め、励ますもので、評価する側も成長する。保育の現場ではすでに行われている。

※通知表の所見も、「アプリシエーション」ということだ。

 

(3)抽象的な議論では、道徳の授業にならない

道徳性は抽象的だが、観念レベルで話し合う授業では、道徳的には深まらない。

具体的な資料(状況)に即して考えさせるから議論が深まる。

また「たとえば・・」と具体的な事例で語らせるから、道徳的価値を意識できる(汎化できる)。

「見えないもの」を言語化させる1つのパターンが「主人公を変えたものは何か」

※「変えたものは何か」と問われれば、語彙の豊富な子が活躍する授業になるが、言葉の美しさに惑わされると、「きれいごと=抽象的な議論」になってしまうところは要注意だと思う。

 

(4)みんなの意見で解決する「議論する道徳」=最近接領域の考え方

中心発問に対して1人目で出る答えは決して中心ではない。

1人目の答えを踏み台にして、みんなの意見を高めていくことが「発達の最近接領域」の考え方。

「最近接領域」は、一人では分からないが、みんなで考えると分かるようなレベルのこと。

自分の考えと友達の考えは違うことが大前提。だからこそ「主体的な判断」と「自立」が求められる。

※逆に言うと、1人目で答えが出るようでは、思考させるレベルが低いということ。

 

(5) 状況の理解は短時間で行う。

資料の状況は「発問」しなくても、「確認」すればよい。

「状況」の把握は必要だが、決して授業のメインであってはならない。状況理解のレベルで授業をすると読解になってしまう。道徳的価値を話題にしないと意味がない。

 

※「分かっている」ようで「分かっていない」部分が多々あると思っている。「分かったつもり」が一番危険なのだ。

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August 28, 2022

道徳資料は、納得できるものを扱いたい。

道徳(光村2年)の「生まれるということ」という資料は、「生命尊重」なのか「家族愛」なのか、何を伝えたいのかがよく分からない。

指導書添付のワークに次の問いがある。

 

「いのちは、つながっている」とかんじたことはありますか。それは、どんなときですか。

 

当然、「(感じたことは)ない」と即答する子がいたよね。

あの子たちは、「どんな時」かを書き込むことができないから、やることがない。

だから教室が混乱してしまう。

 

「いのちは、つながっている」と感じたことはありますか。

 

なんて聞いたらダメだよね。このワークが悪い。

感じたことがあることを前提の問いだから

 

「いのちは、つながっている」とかんじるのは、どんなときですか。

 

と問うべきで、それで子供が答えられないとしたら、そもそもの課題が悪い。

「命は繋がっている」なんて感じる時を聞かれても、大人でも難しいよね。俺すぐに答えられないよ。

◆親子で似ているところを探せばいいの?

◆自分の父母、祖父母、曽祖父母と遡っていけばいいの?

 

ワークプリントには、目当てとして「いのちがつながっているとは、どういうことなのでしょう」と書いてあるが、2年生にどんな答えを求めているのかな。

子供たちに、何をどう答えさせたいのかが曖昧だよね。

到達目標が不明なので、教師も子供たちも、どこを目指して授業をしているのか不明だよね。

何をどう答えたらいいのか子供も分からないから、つまらない。

どんな答えを求めているのか自分も分かっていないから、教師も授業を進めづらい。

 

若い先生に「この資料はつまらないから使わないで違う授業します」という気概を求めるのは難しい。

与えられた教材とワークシートで授業しなければという思いが強い。

だからこそ、教科書会社の責任は重い。

つまらない教材、使えないワークシートを載せるのはやめてほしい。

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August 05, 2022

学習の自己評価例(道徳)

中学校のある道徳教科書には、次の4段階の到達レベルの自己評価チェックがあるそうだ。~「危ない道徳教科書」P144~
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レベル1:意味はわかるけれど、大切さを感じない
レベル2:大切さや意味はわかるけれど、態度や行動にすることができない
レベル3:大切さや意味は理解していても、態度や行動にできる時とできない時がある
レベル4:大切さや意味は理解していて、多くの場面で態度や行動にできている。
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なるほど!
ただし、4つの文の書き方が不統一だと思う。
「Aはできるけれど、Bはできない」という言い方もすごくネガテイブだ。
1:意味はわかる    ・大切さを感じない
2:大切さや意味はわかる・態度や行動にすることができない
3:大切さや意味はわかる・態度や行動にできる時とできない時がある
4:大切さや意味はわかる・多くの場面で態度や行動にできている
と直してみたが、文章の微妙な表現の差を無視したいなら、表で考えればよい。
   
   意味  大切さ  態度・行動
1  〇   ×     × 
2  〇   〇    ×
3  〇   〇    △
4  〇   〇    〇
「やってみようかな」が態度、「やってみた」が行動と考えると
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意味が分かるー価値が分かるー態度で示せるー行動で示せる
==========================
の4つのステップで捉えることができる。
ただし、道徳の評価に「行動できるかどうか」を入れていいのかは、別の問題。
そもそも、道徳の授業の目標は、「心情を育てる」「判断力を育てる」「実践意欲・態度を育てる」
「行動できる」までは求めていない(「道徳的実践力を育成する」の解釈にもよるが)。
だから、最初のチェックに戻ると、レベル4の「行動する」をはずして、3つのレベルで良いことになる。
1:意味はわかる  ・大切だなと思わない
2:大切だと思う  ・やってみようと思わない
3:大切だと思う  ・やってみようと思う
寺脇氏も書いているが、このようなチェック表を使うと、いかにもレベル3・レベル4が正しいのだと誘導することになる。
冒頭の表の場合、道徳の授業では求めていない「行動レベル」までを、明らかに要求している。
自己評価のチェック表としては参考になったが、そのまま「道徳」で使うのは、問題があると思う。
参考にできるところのみ、参考にしよう。

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August 03, 2022

3年道徳(光村)の「よごれた絵」

うっかり友だちの絵を汚してしまった主人公が、葛藤の末、きちんと謝ることを選んだ話。
雑巾でキャッチボールをしていたんだから「わざとじゃない」という言い訳は通用しない。
謝るかどうかというよりも、ルール違反でアウトの状況だなというのが、正直な第一感であった。。
さて、教科書付録のワークには本時の話し合いの大きなテーマが次のように示されている。
◆わざとではなくても、悪いことをしてしまったとき、正直に言わなければいけないのは、どうしてでしょう。
・・・「どうしてでしょう」って聞かれても、子供には難しいなと思う。
そんなの当たり前だよと思っている子が大半だからだ。
逆の行動を想定してみれば分かる。
◆雑巾をキャッチボールをしていて友だちの絵を汚してしまったとき、「わざとじゃない」なら正直にいわなくても良いのですか?
だから、次の謝罪の場面も、子供にとっては「そりゃあそうだよね」になってしまう。
◆「ぼく」があきらさんに自分のしたことを打ち明け、心からあやまったのは、どうしてでしょう。
子供たちはお利口だから、
①自分がされたら嫌だから。
②あとでばれるより、先に言った方がすっきりする。
③いつまでも黙っていたら、心がもやもやする
などの意見を出す。
ここは「黙っている」と「謝る」を対比させて
「このまま黙っていると・・・・だから正直にあやまることにした。」
「このまま黙っているより正直に言った方が・・・だから正直にあやまることにした。」
のように話型にあてはめると、答えやすいだろう。
教科書には、タイトル横に、次の吹き出しがある。
「ごめんね」って言うのは勇気がいるよね。
そう、謝ることは勇気がいる。
ただし、それは「勇気」というよりも「覚悟」だろうか。
自分の非を認めれば、怒られるかもしれないし、嫌われるかもしれない。
人には誰でも強い心と弱い心がある。
この場合は「正直に謝ろう」という「強い心」と、「わざとじゃないから黙っていよう」という「弱い心」だ。
だから、謝れない人の「心の弱さ」に共感しながら、正直に謝れる強い心の人に一歩でも近づくための授業でありたい。
内容項目は「正直・誠実」だが、勇気・謝罪・素直・思いやり・公共心・ルール・マナーなどが絡んでくる資料だ。
おまけ(1)
許してくれる温かい集団でないと、謝ることはできない。
「このクラスのみんななら、こういうことがあっても、許してあげるよね」という確認があるとよい。
これが「寛容」
おまけ(2)
「四知の教え」
天知る、地知る、我知る、他(相手)知るという言葉がある。
いくら隠しても秘密は、いつか分かってしまう。
誰が知らなくたって、自分の過ちは自分が一番よく知っている。
他人はごまかせても自分はごまかせない。
自分に嘘をつく人間にはならないようにしたい。
おまけ(3)
3年生には難しいかもしれないが、「後悔」「反省」「葛藤」などの言葉は早い段階で使えるようにしておくとよい。
Pp

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