December 21, 2022

「三年とうげ」(3年光村) 教師の一人読み

「転んだら三年しか生きられない」という三年峠で転んでショックを受けているおじいさんが

「1回転べば三年生きられる」と解釈したトルトリの助言により、
何度も転んで「めでたしめでたし」となるお話。
本時のめあては「お話のはじめとおわりでだれが、どのようにかわったを考えよう」
これは、学習の手引きの通りだ。
手引きに従って、おじいさんの行動を追っていくのはいいのだが、授業者は「気持ち」も尋ねた。
気持ちの問いは手引きに書いてないのに、「気持ちの変化」は国語の授業のメインになりやすい。
「登場人物の行動や様子を表す言葉に気を付けましょう」
とあるのに、ほとんど条件反射のように「気持ち」を考えさせてしまう。
今回は民話調の単純な話なので、登場人物の詳しい心情表現はあまりない。
〇石につまづいて転んでしまった
〇病気になってしまった
の2項目の「様子」の下に、「気持など」を書かせた。
次のような、おじいさんの行動が描かれていて、これが「気持ち」の根拠になっている。
【石につまづいて転んでしまいました】
①真っ青になり、がたがたふるえました
②おばあさんにしがみつき、おいおいなきました。
③「ああ、どうしよう、どうしよう。」
④「あと三年しか生きられぬのじゃあ。」
⑤ごはんも食べずに、ふとんにもぐりこみ
【病気になってしまいました】
百歩譲れば、①~⑤のような行動表現から気持ちを想像する学習は進めやすい。
◆これらのおじいさんの行動から、心情を自分の言葉で表現させる
◆行動を根拠に心情を発表させる
は、可能だ。
しかし、「気持ち」より大事なのは、本文に書かれた「行動や様子を表す言葉」だ。
書いていない気持ちを言わせるのは、「しょせん想像を言わせているだけ」という自覚が教師には必要だろう。
たとえば、「転んでしまいました」「病気になってしまいました」の「しまいました」は、どんな感じがするかを尋ねれば、
「悲しい感じがする」「なりたくないのに、なっちゃった感じがする」のような意見が出る。
「~しまいました」という表現は、失敗とか後悔とか、ネガティブな感情を誘発する。そういう表現に着目するのが、国語の授業だと思う。
◆「がたがたふるえる」「おいおい泣く」のようなオノマトペ
◆「すっかり青くなり」の「すっかり」のような強調の副詞、
◆「しがみつき」のような、特別な動詞、
なども着目させたいよね。国語なんだから。
授業の後半は、「トルトリ」が現れて、おじいさんがどう変わったかを考えさせていた。
ここは文章全部を読むと、ややこしい。
おじいさんのセリフだけを抽出して、そこに含まれる気持ちを想像させると、変化がつかみやすい。
「どうすればなおるんじゃ」・・・・・・・・・・・・不安・焦り
「ばかな。わしにもっと早く死ねと言うのか」・・・ 不信・怒り
「うん、なるほど。なるほど」・・・・・・・・・・・納得・安心
 民話の構造である【はじめー中―おわり】あるいは【起承転結】を理解させると、話の展開を読み取ったり、物語創作の手助けになったりできるようになる。
◆お話の最初と最後で大きく変わったのは「おじいさん」。
◆事件を解決したのは、中盤で登場した「トルトリ」。
起承転結で言うと、次のようになる。
【起】 主人公の登場
【承】 事件(ピンチ)発生
【転】 助言者の登場
【結】 事件の解決(めでたしめでたし)
※「助言者」と書いたのは、前道徳調査官の横山利弘氏の資料分析で問題解決の役割を担う人物を「助言者」と呼んでいることを利用した。
 ある人物がトラブルを起こしたところに、助言者になる人物が現れて事件が解決するというのは、単発のアニメでも道徳資料でもよくあるパターンである。
 「めでたしめでたし」の真逆の悲劇もある。これが「罰あたり・自業自得」系だ。助言者の忠告を聞かなかったから悪いことが起こる。
 事件を起こした人物が主人公になる場合もあれば、事件を解決した人物が主人公になる場合もあるので、『三年とうげ』の主人公は、「おじいさん」「トルトリ」の両者が出ておかしくない。
 トルトリの「助言」は、「知恵」と言ってもよいし「とんち」と言ってもよい。
 よくある物語の事件解決の方法としては、次の3つが主流かな。
①「腕力」・・・鬼退治のような「退治」系。「力比べ」と言えるか。
②「勇気」
③「知恵」・・・こちらは「知恵比べ」と言えるか。
道徳資料の場合「腕力」で問題を解決することは、ない。

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December 06, 2022

「プラタナスの木」(光村国語4年)

変化に着目させて、変化していない部分を考えさせたい~

今回真剣に読んでみた。
淡々と書いてあるからか、以前読んだ時は、大きな変化・大きな事件を感じなかった。
でも、学習の手引きは「話の変化・人物の変化」をメインにしていて「登場人物の変化を中心に読み、物語をしょうかいしよう」とある。
①物語の最初と最後で、「マーちん」はどう変わりましたか。
②「マーちん」が変わるきっかけとなった出来事は何だと思いますか。
③最後の場面で「マーちん」はどんなことを感じていたと思いますか。
(②③の文末は「思いますか」だから、自分の解釈で良いのだな)。
そして、紹介文は次の型が示されている。
◆「プラタナスの木」という物語には「マーちん」という人物が出てきます。
最初は----だった「マーちん」は----や-----という出来事を通して・・・・
最後まで読むと----な気持ちになります。ぜひ読んでみてください。
はっきり書いてないが、場面の変化・人物の変化から、自分なりの「見方・考え方(主題)」を考えようということだ。
主役の「マーちん」って、そんなに変化あったかな?
読み手である子供にとっての大きな変化は「プラタナスの木」が倒れたことと、おじいさんがいなくなったことだ。それに比べたら「マーちん」の変化(成長)は、読み取りにくい。
それでも、「異変」という言葉があるから、その中身を読み取る必要はある。
1・2場面・・・一学期
3場面・・・・・夏休み(台風)
4・5場面・・・二学期
という構造がしっかりしているから、場面の変化は読み取れやすい。
次のようにひとり読みを進めていった。
①「プラタナスの木が台風で倒れ、切り株だけになった」のが「異変」
②(だけど)「プラタナスの根は生きている」
③(だから)「春になれば芽を出す」
④(つまり)「目に見えないだけで本当は生きている」
⑤(ひょっとして)「おじいさんも、目に見えないだけで、きっと生きている」
⑥(こうして)「1学期は分からなかったおじいさんの言葉の意味が、今になって分かってきた」
⑦(ということは)「プラタナスの木がなくなって、初めて、そのありがたさに気づいた」ということでもある。
・・・と、読む進めてふと思った。
◆目に見える「変化」を意識して読んできたが、変化しない「本質」こそが大事なのではないか。
季節は変わり、公園の様子は変わり、おじいさんはいなくなり、僕たちも成長した。
しかし、
====================
プラタナスは、切りかぶだけになってしまったけれど、ぼくたちのプラタナス公園は変わらない。春になれば、プラタナスも芽を出すだろう。そうすれば、きっとまた、おじいさんにも会える。それまでは、ぼくたちがみきや枝や葉っぱの代わりだ。そう思いながら、マーちんは大きく息をすって、青い空を見上げた
====================
という最終段落は「変わらない」が強調されているように読める。
・「プラタナス」の命は変わらない。
・「公園」は変わらない。
・「僕たち」はサッカーはしなくなったけど、友情は変わらない。
・「おじいさん」にもいつかは会える。
・「季節」は、また巡ってくる。
・「青い空」は、いつも変わらない。
・・・そうか、自分が初読で「変化のない作品」と感じたのは、最終段落で「本質的には何も変わっていない」と読み取っていたからだ。
「変わらない」の印象が強い作品なのだ。
◆「見た目の変化にとらわれず、本質を大事にしろ」
◆「本質さえ変わらなければ、変化を嘆く必要はない」
は、大人の読みだから、子どもには強要しない。
そういう読みもあってよいということでしかない。
他方、「変化=無常」を感じさせる読み方もできる。
◆世の中は、いつまでも、「あって当たり前」「いて当たり前」ではない。
◆私たちは、「ある」ことが特別だと思うべきだ。
◆私たちは、なくなって初めて大事さに気づくものだ。
◆人は成長する。自然も変化する。いつまでも「同じ」ではない。
ただし、この作品から「僕たちは環境を守る番だ(環境保護、自然愛護)」につなげるのは無理があると思う。

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楽しい授業は、疑問が次々浮かぶ

 4年生の国語の授業「熟語の成分」で、ただ教科書の熟語をノートに書き写すだけの授業を見たことがある。

 正確に言うと、デジタル教科書の画面をスクリーンに映し出しているので、担任は板書すらしない。

 教室後方で見ながら、熟語の1つ1つが気になって仕方なかった。よく子どもは退屈な授業を我慢しているなあと感心もした。

 「登山 山に登る」の例題があった。

 見ているだけで、いろいろ連想した。

 

①「登山の」反対は「下山」。「山を下りる」であって「山を下る」じゃない。

②でも「登る」と「下りる」では「上下」みたいな対語にならないのはなぜ?

③「登る」と「下りる」のセットには「登校・下校」がある。でも、あとは思いつかないが、何かあるかな?

④「上京」の反対は何だ? 「下京」という言葉はないよな。

⑤辞書を引いたら「下向(げこう)は「都から地方へ行くこと」があった。初めて聞いた。

⑥でも、なんで「下向」なんだ? これは訓読みでどうなるのか、

 

 職員室に戻って、WEB大辞林3版で「のぼる」を検索する。

のぼる【上る・登る・昇る】

「上る」は上方へ行く。上京する。とりあげられるの意。「坂を上る」「川を上る」「都に上る」「話題に上る」「数億に上る損害」「頭に血が上る」 

「登る」は高い所へ移動するの意。「山に登る」「壇上に登る」「石段を登る」 

「昇る」は太陽・月・位などが高く上がるの意。「日が昇る」「煙突から煙が昇る」「高い位に昇る」「天にも昇る心地」

〔いずれも上方へ移動する、という点で共通だが「登る」には一歩一歩地を踏みしめて上がる意が込められ、「昇る」には一気に移動するというニュアンスがある〕

 

・・・なるほど。「のぼる」に三種類あるなどと意識したことがなかった。

 しかし、対にすれば「上下」「昇降」はあるが「登下」はない。「昇り降り・上り下り」のような対語がないのは納得がいかないな。

 

 「登山・下山」「登校・下校」。この「登・下」はすごく気になる存在だ。

 

・・・国語の「言葉のまど」のような単元は、こうやって次々浮かんでくる疑問を調べたりするから楽しいんだと思う。それが「拡散的思考」だ。

 一方、教科書に載っている例文だけ書き写してもちっとも楽しくない。「収束的思考」は、様々な事例を体系化する上で重要ではあるが、そればっかりでは退屈なのだ。

 

追記

 あれ?、退屈な授業中に、授業そっちのけで自問自答して楽しい時間を生み出していたんだから、「楽しい授業は~」というタイトルに問題があるな。 

 「つまらない授業でも、疑問をうかべれば自分1人でも楽しめる」の方がよかったかもしれません。

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December 05, 2022

「三年とうげ」(3年光村)

「転んだら三年しか生きられない」という三年峠で転んでショックを受けているおじいさんが
「1回転べば三年生きられる」と解釈したトルトリの助言により、
何度も転んで「めでたしめでたし」となるお話。
「お話のはじめとおわりでだれが、どのようにかわったを考えよう」というめあては学習の手引きの通りだ。
手引きに従って、おじいさんの行動を追っていくのはいいのだが、ある授業者は「気持ち」も尋ねた。
そんなこと手引きに書いてないのに、「気持ちの変化」をメインにしてしまったのである。
「登場人物の行動や様子を表す言葉に気を付けましょう」とあるのに、ほとんど条件反射のように「気持ち」を考えさせてしまうことが起きてしまうのだ。
今回は民話調の単純な話なので、登場人物の詳しい心情表現はあまりない。
たとえば
A:石につまづいて転んでしまった
B:病気になってしまった
の2つの「様子」の間には、次のような、おじいさんの行動が描かれていて、これが「気持ち」の根拠になる。
【石につまづいて転んでしまいました】
①真っ青になり、がたがたふるえました
②おばあさんにしがみつき、おいおいなきました。
③「ああ、どうしよう、どうしよう。」
④「あと三年しか生きられぬのじゃあ。」
⑤ごはんも食べずに、ふとんにもぐりこみ
【病気になってしまいました】
百歩譲れば、①~⑤のような行動表現から気持ちを想像する学習は進めやすい。
◆これらのおじいさんの行動から、心情を自分の言葉で表現させる
◆行動を根拠に心情を発表させる
は、可能だ。
しかし、「気持ち」より大事なのは、本文に書かれた「行動や様子を表す言葉」だ。
書いていない気持ちを言わせるのは、「しょせん想像を言わせているだけ」という自覚が教師には必要だろう
(それにしても、「悲しい」「不安」のような言葉で片づけていいのかなと迷ってしまう)。
ちなみに、私は介入させてもらって、「転んでしまいました」「病気になってしまいました」の「しまいました」は、どんな感じがするかを尋ねた。
すると、「悲しい感じがする」「なりたくないのに、なっちゃった感じがする」のような意見が出た。
「~しまいました」という表現は、失敗とか後悔とか、ネガティブな感情を誘発する。
そういう表現に着目するのが、国語の授業だと思う。
◆「がたがたふるえる」「おいおい泣く」のようなオノマトペ
◆「すっかり青くなり」の「すっかり」のような強調の副詞、
◆「しがみつき」のような、特別な動詞、
なども着目させたい。国語の授業なのだから。
授業の後半は、「トルトリ」が現れて、おじいさんがどう変わったかを考えさせていた。
ここは文章全部を読むと、ややこしいので、おじいさんのセリフだけ取り出すとよい。
おじいさんのセリフだけを抽出して、そこに含まれる気持ちを想像させると、変化がつかみやすい。
「どうすればなおるんじゃ」・・・・・・・・・・不安・焦り
「ばかな。わしにもっと早く死ねと言うのか」・・ 不信・怒り
「うん、なるほど。なるほど」・・・・・・・・・納得・安心
 民話の構造である【はじめー中―おわり】あるいは【起承転結】を理解させると、話の展開を読み取ったり、物語創作の手助けになったりできる。
◆お話の最初と最後で大きく変わったのは「おじいさん」。
◆事件を解決したのは、中盤で登場した「トルトリ」。
起承転結で言うと、次のようになる。
【起】 主人公の登場
【承】 事件(ピンチ)発生
【転】 助言者の登場
【結】 事件の解決(めでたしめでたし)
※「助言者」と書いたのは、前道徳調査官の横山利弘氏の資料分析で問題解決の役割を担う人物を「助言者」と呼んでいることを利用した。
 ある人物がトラブルを起こしたところに、助言者になる人物が現れて事件が解決するというのは、単発のアニメでも道徳資料でもよくあるパターンである。
 「めでたしめでたし」の真逆の悲劇もある。これが「罰あたり・自業自得」系だ。助言者の忠告を聞かなかったから悪いことが起こる。
 事件を起こした人物が主人公になる場合もあれば、事件を解決した人物が主人公になる場合もあるので、『三年とうげ』の主人公は、「おじいさん」「トルトリ」の両者が出ておかしくない。
 トルトリの「助言」は、「知恵」と言ってもよいし「とんち」と言ってもよい。
 よくある物語の事件解決の方法としては、次の3つが主流かな。
①「腕力」・・・鬼退治のような「退治」系。「力比べ」と言えるか。
②「勇気」
③「知恵」・・・こちらは「知恵比べ」と言えるか。
道徳資料の場合は「腕力」で問題を解決することはない。

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November 30, 2022

「対比」と「二項対立」

「対比」と「二項対立」とがよく似ているが、本当に、対比と二項対立を同じとみなしていいのか自信がなかった。

井関義久氏の「入門『分析批評』の授業」を読み直してみたら、「二項対立」の記載があった。

◆ とりあえずイメージ語に目を向けてみると、その中の隠された二項対立に気がついたりして、意外なことが見えてくることがある。p58

◆コスモスの色を特定するような発問は無意味だ。根拠を求めても無理なコスモスの色を問うのではなく、コスモスに色がないことの効果をこそ問うべきなのだ。 「幸せ」や「平和」が、「不幸」や「戦争」といった暗い面を併せ持っていることとのかかわりを、このことを通して再び問題にすることができるだろう。ここにも二項対立がある。p59からp60

◆ 1976 (昭和51)年12月、向山洋一氏が調布大塚小学校の6年生を対象とした「やまなし」の授業は、「五月」と「十二月」の二項対立をイメージ語の対比として捉えなおすことからはじまった。p60

次のような授業展開が思い浮かぶ。

○二項対立するイメージ語を列挙させる。

○場面を対比させて、「二項対立」の形で整理する。

・・・・対比して並べる言葉が「イメージ語」と言い切れるかどうかは、もう少し読み込んでから確定したい。

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November 16, 2022

私の弟は学校だ

小学校2年生の主語述語の小テストで、A君が次のような答えを書いていた。

×私の弟は学校だ。
○私の弟は一年生だ。

おー、この×の回答は、あの「ボクハウナギダ」文法だ。

私の弟は「学校」ではない。
ただし、例えば、あなたの弟は今どこにいるかと聞かれたら「私の弟は学校だ」という言い方が成立する。
蛇足ながら、「ボクはウナギだ」というのは、「私はカツ丼にします」に対する「ボクはウナギだ」という場合の言い方である。
話者はウナギではない。
「象は鼻が長い」文法と同じように楽しく読んだことを思い出す。

「明日は月が欠ける」も、主語がはっきりしない一例である。
学校文法では「象はどんなだ」「明日はどんなだ」の構造と見なすので、主語は「象は」「明日は」である。納得しない方が多いと思うけど。

述語が表現する事柄(動作・作用=ドウスル、性質・状態・情意・判断=ドンナダ・ドウダ、説明=ナンダ)の主体(ナニガ)を押さえるために、
 
(主語)   (述部)
 私は、  水が ほしい
      (主語)(述語)
 
のような係り受けの関係が成り立つので、「水が」を述部に含まれる「部分の主語」とするというわけだ。

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November 06, 2022

国語の教養小説 〜アウフヘーベンしようぜ〜

先に、道徳の価値葛藤について書いた。参考文献は、このサイトである。

このサイト終末部分を読んだ時、「なるほど!」と思った。
=========================
「個人の成長と社会の関わり」を作品のメインテーマに据えた小説のことを「教養小説(ビルドゥングスロマン)」と呼びます。
ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』(1796)などを代表とし、19世紀のヨーロッパで近代文学の大きな潮流となったこのジャンルは、「個人の欲望」と「社会の規範」との対立、およびその止揚を主眼に据えているという意味で、まさに「弁証法的な小説」だったのです。
=========================
・・そう言うことか。
この「教養小説」の構造で、小学6年生の「海の命」が読める。
A:父の仇であるクエを捕え、父を乗り越えたい・
・・テーゼ
B:与吉じいさの教えを守るなら、クエを殺してはならない
・・・アンチテーゼ。
C:太一はABの葛藤に悩み「クエを父親と同一視する・クエを海の命とみなし不可侵の存在とみなす」というウルトラCの解決策を生み出す。
・・・ジンテーゼ
【太一は、泣きながら葛藤し、ジンテーゼを思いついた瞬間、笑みを浮かべた。】
もう少し単純な成功物語なら、父親の仇であるクエを捕まえてハッピーエンドになるところだが、6年生という段階では、もう少し屈折した成長譚として提示したかったということだろうか。
このサイトを読んで、さらに興味深いと思ったのは、
◆アウフヘーベン型の成長譚が時代に合わなくなったことと、
◆教養小説的なプロットを拒否する現代小説の例は山ほど挙げられること。
こうした指摘を読むと、逆に教養小説的な小説の意味が分かってくる。
弁証法を超えて? 現代小説に見る『成長』への懐疑」という見出しで、芥川賞を受賞した「コンビニ人間」を次のように読み解いている。

主人公の恵子は、
「コンビニ勤務が一番自分に合っている」
しかし「いつまでもアルバイトの身分ではいられない」。
にもかかわらず「ならばコンビニで正社員になれるように仕事を頑張ろう!」
というアウフヘーベンをしない。
むしろ恵子は、そのような“分かりやすい成長の物語”に対して自ら背を向けるようにして、「コンビニバイト」という隠みのを利用し続けている。
=====================
ここで、冒頭で指摘した「昭和という時代には弁証法について語ることが“クール”だった」という前提に立ち返りましょう。
「昭和」とは、「高度経済成長」を背景に、個人もまた「成長」の物語を信じることができた時代でした。
しかし、21世紀初頭の日本人が手渡された現実といえば、(中略)「成長」の物語を挫くような諸々の矛盾だったのです。
そのように〈近代〉と〈現代〉を分け隔てるものを考えた時、弁証法による絶え間ない自己改良の物語、つまり「社会がより良くなっていく」という楽観が失われたということが、「コンビニ人間」のような現代小説を生んだ歴史的な文脈であると言えるのかもしれません。
=====================
・・なるほど、文学から現代社会を見取り、思想や風潮を語るとは、こういうことなのか。
教養小説=ある種の葛藤を乗り越える物語は、楽観的な「成長物語」なのか。
ただし、こういう成長譚を「作品のパターン」とみなしているからこそ、読者の期待を裏切る形の非成長物語が際立つ。
「型」があるから「型破り」が生きるのだ。
義務教育で「型」を教えることは、とても重要な意味を持つ。

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October 31, 2022

子供の感想には、「感動」と「分析」がある。

「教師修行十年」の中に次のような記述がある。

子供が感想を述べる時、実はその感想の中身には 感動と分析の2つが含まれていたのである。「とてもこわくなりました」が前者であり、「最後の夕焼けの場面が印象的でした」が後者である。

◆「とてもこわくなりました」=「感動」、いわば「主観的な表現」

◆「夕焼けの場面が印象的でした」=「分析」、いわば「客観的な表現」

「とてもこわくなりました」の主語は明らかに「私」。

一方、「夕焼けの場面が印象的でした」の場合は、少し複雑で「夕焼けの場面が印象的だ」で主語述語だが、

(1)私は「夕焼けの場面が印象的だ」と感じました。 私には夕焼けの場面が印象的でした。

(2)誰が読んでも、この作品は夕焼けの場面が印象的でした。

と2つの場合が想定できる。「印象的」と断じた主体が必要になるからだ。

(「私は」は主語でも「私には」は主語ではない。「私には」は、英語で言うと、Iではなく、for meに該当する。)

 

上記の例文は、次のように事実のみの記載に徹すれば「客観表現」と言える。

 

◆この作品は色彩表現が使われています。

◆クライマックス場面の「夕焼け」が出てきます。

 

ここに、「効果的」「印象的」を加えると、やや主観が入る。

◆この作品は色彩表現が効果的に使われています。

◆クライマックス場面の夕焼けが印象的に使われています。

 

他者も同じ印象を持つだろうという意味を強調したのが次の表記。

◆この作品に色彩表現が効果的に使われていることは誰もが理解できるだろう。

◆クライマックス場面の夕焼けが印象的に使われていることは誰の目にも明らかだ。

 

先の表現のままでも、多くの人もそう感じるに違いないという意味を込めることができる。

◆この作品は色彩表現が効果的に使われています。

◆クライマックス場面の夕焼けが印象的に使われています。

 

ただし、この「断定」が独りよがりにならないように注意しなくてはならない。

「みんなは自分の意見をどう思うか」を意識するのが「メタ認知」だ。

「分析」「解読」は、誰しもが同じように読みとる内容(事実)。

「感想」「印象」「解釈」は、個人の見解が入る。

「批評」も同じ。客観的な事実に即してはいるが、あくまで「私見」に過ぎないから、全員一致とはならない。

同じ部分を客観的に分析した結果なのに、「解釈」が異なり、「批評」が異なる。

だから国語の討論は面白いのだ。

「視点」や「表現技法」のような答えが1つに決まる「分析」の内容を話し合わせれば最終的に決着がつく。

しかし、「解釈」は1つに決まらない。

決まらないことを承知の上で討論させないと、「で、答えはどっちなの?」が気になったり、お互いにモヤモヤしたまま授業を終えたり、ということになってしまう。

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October 30, 2022

国語の「登場人物」と「発問」を考える

現行の学習指導要領では「登場人物(人物像)」については、次のような指導内容になっています。

1・2年場面の様子や登場人物の行動など、内容の大体を捉えること。場面の様子に着目して、登場人物の行動を具体的に想像すること。

3.4年登場人物の行動や気持ちなどについて、叙述を基に捉えること登場人物の気持ちの変化や性格、情景について、場面の移り変わりと結びつけて具体的に想像すること

5.6年登場人物の心情などについて描写をもとに捉えること人物像や物語などの全体像を具体的に想像したり表現の効果を考えたりすること。

・・「捉える」とはどうすることか。「想像する」とは、どうすることか。

具体的には書いてないので、指導者によって授業は多種多様です。

この指導内容のまま「〜しよう」と板書したところで、子どもは何をしたらいいのか分かりません。

指導内容が曖昧なら、評価基準も曖昧なので、子供たちは達成感も得られません(教師も達成感がないでしょう)。

だから無内容な目当てを板書する必要はないのです。

◆どんな人物かを捉えるために「どんな人物ですか」

◆どんな気持ちかを捉えるために「どんな気持ちですか」

◆行動の意図を捉えるために「なぜ、そうしたのですか」

と直接問うても、なかなか深まりません。

だから発問の工夫が求められました。

聞きたいことを直接聞くなというのが「間接性の原理」です。

「どんな人物か、どんな気持ちか」を捉えるために、別の聞き方をしろということです。

登場人物の物理的・心理的に置かれた状況を理解するために求められたのが「知覚語で問え」です。「五感を問え」とも言います。

「何が見えています」「何色ですか」「どこにいますか」「○○はいくつありますか」「何が聞こえていますか」などを問うことによって、読者は、その作品世界に入り込み、登場人物になったつもりで仮想体験を始めます。

今なら、「VRのゴーグルをはめて、作品の世界に自分も入り込む」という言い方が分かりやすいかもしれません。

バーチャル体験、つまり「仮想自己」の「追体験」です。同化体験とも言います。

=====================

絵から文へ、そして、文から絵へ。私が提唱する国語トレーニングでは、同じ内容のものごとを、絵と文の両方で表現できるようになることを目指します。絵から文、文から絵と操作することを、『媒体変化』と言います。媒体変化を実際にやってみると、その人が、何をどこまで認識できているかが、はっきりとわかります。絵を見て読み取れなかったものは、文章に変換できませんし、文を読んで理解できなかったことは絵に描けるわけもありませんからね。つまりは、理解力が磨かれていく。自分が何をわかり、理解できているのか。どこがわかっておらず、理解できていないのか。これをはっきり認識することは、何かを学ぶうえでの第一歩です。絵から文、または文から絵と置き換えていく作業とは、いわば『理解のプロセス』のレッスンです。提示された内容を小さく分解して、その一つひとつを読み解いていき、わからないところが出てきたらそこは入念に読み解き直し、すべての要素を『わかる』にしていくわけですから。

『ドラゴン桜2』桜木建二が教える 2020教育改革 絵から文、文から絵のトレーニングの効果とは?

https://www.asahi.com/edua/article/12329728

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・・・作品の内容を、絵にして示すには、曖昧な部分を確定しなくてはいけません。

絵を作成するための指示が、先に述べた「見えを問う、位置を問う、数を問う」などでした。

多くの方は「ドラゴン桜のアドバイスって、向山先生の発問のことだ!」と思われたことでしょう。

「見えを問う、位置を問う、数を問う・・・」

浜上薫先生が、「絵画的発問群」と名付けた通りです。

向山先生の発問は、バーチャル体験を促して、作品世界のイメージを確定させものだったのです。

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「分析批評」の番外編 ~読者・作者・話者~

『天気の好い日は小説を書こう』(三田誠広)は向山先生もお勧めの1冊だが、その中に

「志賀直哉の作品は二十歳の人にはわかりません」

「赤ん坊を抱いて初めてわかる『和解』」

という章がある。

読者の人生経験(スキーマ)に触れている。

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小説というものは人生経験に基づいて書く芸術ですから、ただ勉強するだけではわからないという面をもっている。読者の側にも、それなりの経験が必要な場合もある。例えば、志賀直哉の作品は若い人にはわからないかもしれない。(中略)人の親になると人間の心境というのは変わるんですね。変わるし、人生観が深くなります。その時に初めて志賀直哉というものがわかるんですね。皆さんもいま、志賀直哉を読んでわからないと思うんです。二十歳の人にはわからないですね。皆さんも三十歳くらいになって、子供がよちよち歩きになるとか、そうした時にもう一度、志賀直哉を読んでみるといいと思います。

===================

・・・この三田氏の主張は、読者の経験によって、作品から得られるものは違ってくるということだ。

椿原先生も話しておられたが、大人になってから、子供向けにお絵本を読むと印象は全く異なってくる。

『天気の好い日は~』には、もう1つ印象的な箇所があった。

先の志賀直哉の『小僧の神様』のくだりで次のように書いてある。

 

◆これはですね、中学校の時に読むと、小僧の神様の立場で読んでしまうんです。

 

この三田氏の主張を、教師はしっかりと自覚しないといけない。

作者が設定した視点人物がどうであれ、子どもは作中の「子ども」の立場で読んでしまうということだ。

中2の「大人になれなかった弟たちに」は、少年(兄)が話者であり視点人物だから、生徒は少年(兄)の立場で読む。

生徒はヒロユキの死を弟の死として読む。

教師は、ついつい母親の立場に立って、我が子の死としても読ませたがるが、生徒は「弟の死」で仮想体験する。

もし、親の視点で書かれた小説が教科書に載っていたら、その時は、「親の視点」に読むように指導すればいい。

「三人称全知視点(神の視点)」のデメリットについて、三田氏は「『小学生の作文』にならないための諸注意」の章でアドバイスをしている。

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神の視点でものを見て、父と子が出てくるとですね、どうもお父さんがうすっぺらく見えてしまうということになる。子どもなり、娘なりの視点に徹して描いていくと、おのずと父親の影というものが気配に伝わってくるものです。子供の目には見えない父親の影の部分は、見えないままにしておく。その方がいいんです。見えないものは描かない。すると立体感が出てくるのです。神の視点で何もかも描いてしまうと、嘘っぽくなる。同様に、書き手が何もかもを解釈し、説明してしまうと、ただの図式になり、奥行きがなくなってしまいます。(中略)人物が出てくると、必ずその人物を説明する人がいるんですね。「これがこれこれこういう人である」というふうに説明しちゃったら、それは「絵に描いた餅」になってしまいますね。そうじゃなくて、主人公の目でじっと見る、見えたものだけを書けばいいんです。そうすると見えなかったものは書かれないということになります。その人物の裏側というのは主人公に見えないわけですね。見えないけど、裏も何かあるんじゃないかなという気配だけが残る。すると作品が立体的になるんですね。(P153/154)

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書き手は人物の解釈や説明をしていない。

だからこそ、読者は自分で解釈し説明を加え自分を納得させる。

書き手が書いた解釈や説明をなぞるのではなく、書いていない解釈・説明を読者自身が課す。

主人公の目でじっと見る、見えたものだけを書けばいいんです。

この三田氏の書き手のテクニックを裏返しで言えば、主人公の目でじっと見る、見えたものだけを読めばいいんです。ということになる。

まさに「見え先行方略」だ。

三田氏はさらに次のように述べる(P116)

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◆もし、これがですね、志賀直哉が父親に向かって、「お父さん、僕の赤ん坊が死んでしまいました。その瞬間、私はお父さんの気持ちがわかりました。いままでの私がわるかった。お父さん、許してください」と言ってですね、父親が息子を抱き締めて、「いや私もいままで説明不足だった。お前もお父さんのことを許してくれ」と言って、二人がひしと抱き合ったら(笑)非常にわかりやすい話になりますね(笑)しかし、それでは大衆文学になってしまうんです。教養のない人にはわかりやすいかもしれないが、志賀直哉はそういうふうには自分の文学を作っていかなかったんですね。何にも説明しないんです。だけどわかる人にはわかる。私も二十五歳にして初めてわかったんですね。

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小中学校で扱う文章は、人物の解釈・解説が詳細に描かれている。

「大造じいさんとガン」は典型で、冗長なガンへの呼びかけを宇佐美寛氏は批判している。

そのような「わかりやすさ」に慣れてしまうと、語らない良さを備えた小説を読めなくなってしまう。

「分かりやすい」物語を例にして読みの訓練をしながら、「分かりにくい」小説を読むスキルを身に付けさせていければよい。

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