November 27, 2023

「伝記」についての考察 (1)



 5年国語(光村)『やなせたかし・・アンパンマンの勇気』の学習の手引きに次のように書いてある。
(1)伝記の表現
伝記には、次のような表現を用いた部分がある。
・人物の行動や会話、心情が、物語のように書かれている部分。
・事実の説明や、その人物に対する筆者の考えが書かれている部分
 物語のようであり、説明文のようでもある「伝記」の特徴が書いてある。
 マニアックに教えたいなら、次の点に触れたい。
 伝記は基本的に三人称限定視点。
 「震災が起こったとき、たかしは九十二さいで、そろそろ仕事をやめて、ゆっくりくらそうと思っていた」のように三人称で語られるが、「たかし」の気持ちにだけ入りこむ。
 この一文の「たかし」は一人称の「私」に置き換えても通用する。
 ただし、全部がそうというわけではない。
 この作品のラスト2文は
 アンパンマンと共に人々をはげまし続けたたかしは、震災から2年半がたった2013年10月13日、94さいでなくなった。その直前まで、絵や物語をかいていたという。
 本人が亡くなる場面なので、「私は・・亡くなった」という表記はそぐわない。
 また、最後だけは「その直前まで、絵や物語をかいていたという」と伝聞表現になっている。
 伝記は本人の聞き取りやさまざまな事実からの推定になるので、文末はほとんど「~だそうだ」「~という」「~らしい」になってしまう。 それでは煩雑で読みにくいので、通常は伝聞・推定の表現は略されている。
 この場合は、ラストのみ筆者が前面に出てきて、伝聞の文体になっている。
 筆者の「わたし」は直接出てこないのだが、出たり入ったりを感じさせるところが面白い。





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October 24, 2023

国語の答えは「1つ」しかない!

国語の問いに対する答えは、解答者の頭の中ではなく、問題文の中にあります。文章の中にない答えを、勝手に考えてはいけません。
×解答者がどう思ったか = 主観
⚪︎問題文に何が書いてあったか = 客観
「音読で国語の成績は必ず上がる」齋藤達也(あさ出版)
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・・・2013年初版の本だが、受験対策として、こう書いている。
受験対策だからきっちり言い切ったほうが信用される。
 
「あなたなら問題」の典型であるPISAの落書き問題は2000年に出題された。
◆あなたは、この2通りの手紙のどちらに賛成しますか。片方あるいは両方の手紙の内容にふれながら、自分なりの言葉を使ってあなたの答えを説明してください。
 この2000年以降、自分の意見表明を課す受験問題も少しずつ見られるようになってきた。
 ただ、国語の問いの基本は、まずは「客観」である。
 「主観」を問う記述問題も珍しくはないが、それは、文中の言葉を根拠に論じることを前提とした自由記述である。PISA問題で「手紙の内容にふれながら」とあったように。
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October 15, 2023

漢字の練習時間が長い

自分の周りだけかもしれないが、授業中の漢字練習の時間がやたら長い先生が多い。
10分で終わらず15分ぐらい~20分ぐらい使っている。
冗談みたいな例でいうと、かつて管理職のとき、授業が始まって教室を回ると漢字練習をしている学級があった。
漢字練習の後の授業を見ようともう1度回ったらまだ漢字をやっていて、もう1回回ったらまだ漢字をやっていて
「ああ、今日は1時間ずっと漢字ドリルの日だったんだ」
とがっかりしたことがある。
授業の準備が足りなくて漢字でつぶしたのかな?
漢字さえやっておけば国語の授業の「やった感」があるのかな?
と不思議だった。
15分から20分を漢字練習に使ったら、教科書の内容は全然進まない。
しかし、教科書の内容の指導に自信のない先生は、その「ちょっとやった」程度の授業で済まそうとしているのかもしれない。
つまり確信犯的に漢字ドリルの時間が長いのだと邪推するようになった。
同じようなことは向山洋一先生も「国語の授業が早く終わってしまうんです」と嘆く新卒の先生の話として紹介している。
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「教科書を読んであげるでしょ。それから何人かに読ませるの。大体読めるなあと思ったら、漢字の練習をさせるの」
『国語の授業が楽しくなる』P132
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「それだけよ」と言い切る彼女に、周囲の先生が一瞬ぽかんとした、という。
ここまでではないにしても、場面の内容をなぞるだけの読み取りをする先生にとっては、漢字に時間を浪費しても、指導時間が余って仕方ないのだ。

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October 13, 2023

「要約よりも引用を指導せよ」 ~宇佐美寛先生の主張~

◆引用するためには、引用すべき個所を選ばねばならない。自然に注意深く読むことになる。目はゆっくり、文面に忠実に進む。(中略)文面から遊離した粗い概括・要約・印象は防げる。
「宇佐美寛 問題意識集2 国語教育は言語技術教育である」P21
「神は底部に宿りたまふ」
「引用無きところに印象はびこる」
「印象批評」
といった言葉も宇佐美先生の著書から学んだ。
今回、読み直してみて、次の箇所が印象に残った。
「引用が出来ない者には、要約はなおさら出来ない。引用を教えずに要約を教えるのは間違っている」p24
先日、文中の言葉を根拠に主人公の心境を検討させる授業を参観して、「引用」は説得力が高いことを改めて感じた。
授業者は「たずねびと」(5年光村)の前半部を「わくわく好奇心」、中盤を「テンション下がる」と文中にない言葉でまとめていたが、その言葉選びに疑問をもった。
ならば、逆に中盤を「衝撃・ショック」などとまとめるのにも、十分な合意形成が必要であり、慎重な言葉選びが必要だと思った。原爆の被害を知って「頭がくらくらした」と書いてあるから「衝撃」でいいよね、と大人は思うが、子どもはできるのかどうか。
かつて、文中の言葉そのまま抜き出すのを「摘出」、自分の造語で表現するのを「創出」
と書いたが、大きく言うと「引用」か「要約」かという区分と同じ意味だ。
丁寧に引用する癖がついた段階で
「引用すると長くなるから適切な言葉で置き換えてみよう」
と教えるのが「要約」だ。その逆は好ましくない。
「正しい引用・正しい抜き出し」でないとテストで正解とされない場合もあるのだから、まずは「正しい引用」が大事だ。
ちなみに、先日「ごんぎつね」で授業者が「イタズラ」とカタカナ表記していた場面でも違和感も抱いた。
引用は正確にというのは、受験にまでつながる大切な作法なのだ。

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September 24, 2023

まずはスラスラ音読できること

向山洋一先生は『実践・授業の腕を上げる法則』の中で、次のように述べています (P 24,25)
 いつもの私なら何をするか?
 答えは簡単である。
 「教材の文章を全員が読める」ようにすることである。二年生の子どもたちが、 教材の文章をスラスラ読めるようにすることある。
 分析批評は、その後のことだ。
 教材がスラスラと、あるいはしっかりと読めるようにさせること、これは国語の授業の出発点である。
 大森修先生は、もっと厳しい言い方をされます。
 音読を十分にすると「読めば分かること」はほとんど分かってしまうので ある。「読めば分かることを授業する必要はない」 その通りである。しかし、現実の授業はどうか。読めば分かることを授業しているのである。読めば分かることが読んでいないために子どもに分からないのである。
 音読を十分にしないために子どもが分からない内容を、教師は子どもが分からないのだと誤解している。子どもは力がないという教師ほど誤解をしている。
 分析批評の授業は、 普通に読んだのでは分からない内容を授業している 。であればこそ、読んだだけで分かる内容をきちんと子どもに分からせてい るかどうかが厳しく問われなければならない。 読めば分かる内容さえも分からせないで子どもに普通に読んだだけでは分からない内容を分からせることなどできないからである。『教室ツーウエイ』No 56 P21、22
・・・久しぶりに大森氏の文章を読みました。文面のしつこさがたまらない。
 あえて、ロジックを整理すると、次のようになるでしょうか。
①音読が十分なら「読めば分かる」ことは分かってしまう。
②しかし、多くの学校では、音読が不十分なので「読めば分かる」ことさえ分かっていない。
③分析批評は、音読だけでは分からない授業を課している。
④だから、音読も十分でない教室で分析批評ができるわけがない。
 佐々木俊幸先生も次のように述べています。
 いくつかの音読指導の技術を身につけていて、それを必要に応じて使い分けていけるのがプロ教師である。
「『大造じいさんとガン』の全発問・全指示」p91、92
 さて、先日参観した4年の授業では「一つの花」の三場面を扱い、簡単にあらすじをまとめさせていました。
 あらすじの構成要素の確認も必要ですが、そもそも「スラスラ読めること」が保障されていませんでした。
 4ページもある場面だから、ちょっと読んだくらいでは、整理できない。
 宿題で音読させるだけで保障できるほど甘くないので、授業の中で、きっちり音読練習をさせてほしい。
 ICT活用の世の中でも、音読練習は決しておろそかにしてはならないのです。
※参考 「まるの会通信No133」 89.12.10 竹田発 日本教育技術学会雑記より

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September 23, 2023

国語の評価はインプットとアウトプット

読み取り能力があくまでインプット。
市販テストはインプットの評価。
教科書には各単元で何らかの形でアウトプットの活動(パフォーマンス課題)が示されている。
感想交流、まとめの新聞、紹介文、続きの物語などなど・・
しかし、授業者が自分の都合・時間の都合でアウトプットを省略することがある。
読み取りが終わったら市販テストをやって終わりというケースは、私の実感ではよくあることだ。
結局ペーパーテスト中心の授業、ペーパーテスト中心の学習評価。
ペーパーテスト裏表200点に対して、アウトプットを何点配置しているかで、やる気も分かる。
ノートやワークで10~30点程度しか配点していないなら、ペーパーテストの結果が全てと言っているに等しい。
「パフォーマンス評価が大事ですよ」と言われながら、動きの鈍い学校が多い。

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September 22, 2023

変容(成長)する主体が「主人公」

『ドラえもん』の中心人物はドラえもんなのか、のび太なのか。
自分が誰から学んだのか、もはや定かではないが、
作品の中で変容(成長)するのが「主役」
主役の変容に一番関与するのが「対役」
という定義も1つあると思っている。
はじめーー〇〇だった主役は
 ーーー対役に出会い(ある事件を経験して)
おわりーー◎◎に変容する
という作品構造だ。
分かりやすいのが「成長」で、成功・勝利・事件解決などが含まれる。
悲劇なら「成長」とは言えないから「変容」。別離・死・破局などが描かれる。
お人好しなドラえもんは、のび太に出会って、「人間って全然学ばない生命体だ」「便利な道具が本当に便利とは限らない」と悟るのだろうか。
ならば、主役はドラえもん。
怠け者ののび太は、ドラえもんに出会って、「他人や機械に頼っても良いことはないな」と学ぶのだろうか。
ならば主役はのび太。
ただし、のび太が主役の場合は「失敗してもすぐに忘れてまた失敗する」という人間の成長のなさを主題にしているとも読める。
成長しない主役・変容のない主役という設定だ。「寅さん」もこのタイプか?
主役は主題を背負っているので、主題の設定によって主役が変わってくると考えている。
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1学期どう教えたのですか?

光村国語(5年)の9月教材は、「たずねびと」
これは長編だ。
教育課程通りの6時間完了で終えるには、とてもではないが場面ごとの詳細な読み取りなどしていられない。
ざっと全体像をつかみ、ざっと主人公の変化をつかむスキルが求められる。
しかし、このざっと読みは、この作品が初めてではない。
光村が意図しているかどうかは分からないが、夏休み直前の読み物教材(読書教材?)に「カレーライス」が配当されている。
これも長い。
かつては場面ごとに丁寧に読み取る4月の単元だったが、今は詳細な読み取りを狙っていない。
だから、ざっと読むスキルは
「カレーライス」
「たずねびと」
と続くことで習熟される。
あの長い「たずねびと」をどう授業するのかは、
あの長い「カレーライス」をどう授業したかに左右される。
夏休み前の「カレーライス」を読んだだけ、感想文の練習に使っただけなのか、
ちゃんと(それなりの)読解の授業をしたか
大きな違いだ。
別の言い方をすると、本気で2学期教材の「たずねびと」の授業を成功させたかったら、「カレーライス」で種を撒いておくべきなのだ。
※4年で言えば、1学期に「一つの花」をどう扱ったかによって、2学期の「ごんぎつね」の授業プランが変わってくるわけだ。

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September 21, 2023

『たずねびと』の主人公は、哲学的思考に一歩近づいた?

令和3年度 石川県の教採論文課題の文章が面白かった。

私たちは、「問う」ことではじめて「考える」ことを開始する。思考は疑間によって動き出すのだ。だが、ただ頭の中でグルグル考えていても、ぼんやりした想念が浮かんでは消えるだけである。だから 「語る」ことが必要になる。きちんと言楽にして語ることで 、考えていることが明確になる。そしてさらに問い、考え 、語る。これを繰り返すと、思考は哲学的になっていく。

(梶谷真司 「考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門」より)

 

・・・「哲学的思考」と言われると難しくて敬遠したくなるが、「問い、考え、語る」なら、新学習指導要領の「主題的・対話的で深い学び」に通じる。出題者も当然そう思ってこの資料を教採の課題として提示したのだと見当がつく。

 

5年国語「たずねびと」と重ねてみたら、主人公の「綾」が、まさに哲学的思考をしているのではないかと思った。

上記の表現を借りるなら、ラストの「綾」は、頭の中でグルグル考えていても、ぼんやりした想念が浮かんでは消えるだけの状態だ。

 

「アヤ」は原爆で亡くなった「アヤ」についての疑問を解明するために広島に来た。

しかし、「アヤ」についての当初の疑問は解決したものの、知らないことが多すぎた。

資料館を半分も回らないうちに、わたしは頭がくらくらしてきた。何もかも信じられないことばかりだった。

うちのめされるような気持ちのまま、資料館を出た。

わたしははずかしくなって下を向いてしまった。そんなことは考えたこともなかったからだ。

わたしはらんかんにもたれた。おにいちゃんもせかさなかった。

ただただ興味本位で訪れた自分が恥ずかしくなった。

思慮の足りなかった自分が恥ずかしくなった。

何も知らない自分が恥ずかしくなった(知らないことの多さに呆然とした)

 

だから、この作品の中で主人公がどう成長したかと問われたら、「自分の思慮の足りなさを知った」「自分が『無知』であることを知った」ということで、それはつまり「哲学的思考に一歩近づいた」ということなのだと思う。

 

学校をはじめ 、世の中では、いろんなことを学んで分かることを増やし、分からないことを減らすのがいいとされる。 哲学はその真逆である。分からないことがたくさんあれば、それだけ間うこと、考えることが増える。だから、 どんどん分からなくなるのがいい、というのが哲学なのだ。

 

「綾」は、どんどん分からなくなった。

それでいい。それこそが「成長」なのだ。

 

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September 10, 2023

向山洋一氏の功績 〜表現の中に根拠を求める読み〜

ご存知の方も多いと思うが、『書く力は、読む力』鈴木信一(祥伝社新書2014初版)は、向山先生の「ごんぎつね」の実践に触れている。
巻末に参考文献として『国語の授業が楽しくなる』が提示してある。
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 たった一語でも変えれば壊れる
 向山洋一は、作品をそういう取り替えのきかないものとし、作品それじたいを精査すれば、意味は1つに決まると、新美南吉の「ごんぎつね」を使って、そのことを証明したのでした。
   (中略)
「兵十はかけよってきました」とありますが、兵十は何のためにかけよったのでしょう。ちょっと考えてみてください。
 じつは小学生にこの質問をすると、ほぼ全員が次のような答えを返すといいます。いえ、現場の教師もそれは同じだと。
---ごんがどうなったかをたしかめるため。
 しかし、向山洋一は、これこそが「表現から遊離した思い入れ読み」だといいます。そのような読めないと。
 なるほど、私たちは表現を曲げてでも、自分の読みたいものを読もうとするときがあります。ラブレターには断りのせりふがたしかに書かれているのに、それを脈あり読み違えるあれです。しかし。向山洋一は、これを「思い入れ読み」として厳しく排除します。
---(今度は)どんないたずらをされたか、確かめるため。
 これが正解です。そう書いてあるというのです。兵十の視線の動きを丁寧にたどれば、兵十の関心が最初はごんになどなかったことがわかると。
   (中略)
 かけよったあと、兵十がまっ先にしたことは、家の中を見ることでした。そして、土間のくりに目をとめます。ごんへの関心が生まれるのはこのあとです。「おや」と、兵十はびっくりして、そこではじめてごんに目を落とすのです。
 〈ニュー・クリテイシズム〉の流れを汲む「読み」の方法論を、「分析批評」と名づけて日本にいち早く紹介したのは小西甚一でした。大佛次郎賞を受けた『日本文藝史』や『古文研究法』などで知られる国文学者です。この「分析批評」を教育現場に広めたのが向山洋一です。彼は「教育技術法則化運動」を率いて、八十年代の教育界に一大ブームを引き起こしました。
 もっとも、分析批評的な「読み」は、いまでは常識となっています。とくに受験国語の世界では、「問題文が示す範囲の中でどう読めるか」という、いわば表現の中に根拠を求める「読み」が求められています。
 ところで、先ほどの引用箇所ですが、作者である新見南吉は何も考えずにあれを書いたのかもしれません。しかし、兵十の視線をあの順番で移動させてしまった以上は、「かけよったのは、ごんがどうなったのかをたしかめるためだ」との主張は通りません。仮に新見南吉本人がいったとしても、それを正解として認めるわけにはいかないのです。  P47〜52
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「伝記批評」・・作品を作者の生涯と結びつけて理解しようとする読み。
「印象批評」・・作品を読後の印象として理解しようとする読み。
「分析批評」・・「伝記批評」と「印象批評」を否定して、作者から独立したテクスト=言語的構造体として作品を客体化する読み。
といった流れの中で、法則化運動の「分析批評」の授業があった。
◆「作者の意図」や「読者の感情」を脇に置いて、「表現」から意味を引き出す。これはいまや通常の読書にとって当たり前のことになっていますが、この作業、じつは意外と困難です。P53
とあるところの「今や当たり前」を築いたのが向山洋一氏の授業実践というのが鈴木氏の見解だ。
このような歴史的な転換期に居合わせたことに、身震いしてしまう。
鈴木氏が参考文献にした「国語の授業が楽しくなる」は、1986年2月初版。
私が教職1年目、名古屋三省堂の向山洋一講演会で購入したものだ。
一方で、相変わらず「表現から遊離した思い入れ読み」が跋扈する国語の授業に対して、我々は断固反対の声を上げねばならない。
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