August 13, 2020

文学批評による批判的思考力の育成

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文学批評による批判的思考力の育成は、現在世界の教育界で主流となりつつあります。

・・・国際バカロレアの文学教師である小林真大氏は、国際バカロレアが文学研究を重視する理由を次のように述べている。

国際バカロレア機構が発行した「指導の手引き」には、文学を学ぶことで「自立的に考え、独自性に富んだ、批判的かつ明晰な思考の発達を促す」ことができると明確に述べられています。このように、世界最先端の教育制度においても、文学批評は生徒の批判的思考力を伸ばす上で極めて重要な位置に置かれていることがわかります。 『文学のトリセツ』(五月書房新社)P 29

・・・そして、どのように文学を学べば批判的思考力が身に付くかについて、次のように述べている。

国際バカロレアは、生徒が批判的思考力を伸ばすためのカギとして、教師が文学作品を「異なる複数の批判的な見解」を通して体系的に教えることが不可欠であると述べています。実際、国際バカロレアを受講している現役の高校生は、多種多様な角度から文学テクストを論じることによって、批判的思考力のスキルを培う努力を続けています。P 29

・・・小林氏が示した「指導の手引き」と同じかどうか分からないが、「言語A:文学」指導の手引き」が検索してヒットした。


https://www.ibo.org/globalassets/publications/dp-language-a-literature-jp.pdf


「言語A:文学」と「知の理論」
文学の学習は、「知の理論」(TOK)の土台を形成する「問い」と「振り返り」に取り組むための多くの機会を提供しています。「言語A:文学」コースでは、文学作品を読む上 で、複数の異なるアプローチを取り上げます。また、言語についての綿密な分析はもちろ ん、文学を通じて示されるさまざまな異なるものの見方への理解、そしてそれらが生徒自身の文化(生徒自身の文化が複数ある場合も含めて)とどのように関わるかを理解することにも取り組みます。これらの活動はいずれも、生徒が知識の探究や、批判的思考、およ び振り返りに関わることを要求します。 

批判的アプローチ 
文学作品を独自に批評する力を身につけるためには、文学を学ぶ上での方法論についてある程度の知識が必要です。批判的なものの見方を教えることは、このコースに欠かせない要素です。作品の読解の可能性についての幅広い理解を生徒に促すため、与えられたテクストに対し、異なる複数の批判的な見解を強調する場合があります。

・・・小林氏は、次のようにも述べている。

◆今の日本の国語教育において、とりわけ問題に対して1つの正解を求めるような受験重視の授業では(中略)、批判的思考力が磨かれる機会はほとんどないと言って良いでしょう。25ページ

・・「たった一つの教師の解釈」を正解とするのではなく、「自分の解釈を尊重し、多様な解釈の中から自分で選ぶ」ことを大事にするのが、

①国際バカロレアの求める文学批評の学力であり、
②PISAの求める読解力であり
③新学習指導要領国語の目指す学力である

ということか。

 昨年の「中央公論」12月号「国語の大論争」の特集では、三森ゆりか氏の言葉が印象的だった。高校で「論理国語」と「文学国語」に分ける状況に対し、両者を融合する「分析批評」を評価するような見解だったからだ。

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残念ながら日本では文学や哲学を役に立たないものとして扱う傾向があります。また、日本では「文学を論理的に読み解く」という捉え方自体がないようです。私にしてみれば、文学と論理とを別ものとして分けてしまう方がおかしいと思うのですが、例えば、文学の中の登場人物の誰それさんは、こう考えた。それはなぜか。なぜなら・・という分析をすれば、それはまさしく論理です。つまり、文学であろうが詩であろうが契約書であろうが、すべて論理がなければ文章そのものも成り立ちません。論理とは言葉を秩序立てて組み合わせて作り上げるものですから
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・・・同特集の中で、金田一秀穂氏も「論理を突き詰めれば文学になるし、文学を突き詰めれば論理になる。だから国語を『論理国語』と『文学国語』の二つに線引きできるわけがない」と述べている。

 これまでは『論理国語』と『文学国語』が分かれたことを、好意的に受け止めてきたのだが、国際バカロレアの「文学批評」の授業を知ると、世界から取り残されてしまったのかと真逆の感想を持つようになった。
「批判的思考力」を育てるつもりがないから「文学国語」の領域を残したのか?

 そこは指導要領を読み込んでみよう。 


※ おまけ

「文学のトリセツ」・・・この本では、「印象批評」「構造批評」などは、序盤の序盤。

その後、たくさんの「批評」のスタイルがあった。


脱構築批評・精神分析批評・マルクス主義批評・フェミニズム批評・ポストコロニアル批評・カルチュアルスタディーズ・障害学批評・エコクリテイシズム批評・人文情報学批評

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August 06, 2020

単純な対比の読み取りでは、飽きてしまう

「分析批評」の定番の授業の1つが「対比」であった。
「対比の授業」については、先にダイアリーで書いた。
 
 「文学のトリセツ」小林真大著(五月書房新社)の最終章は、文学批評の実例として「異邦人」を分析している。
 
「構造主義の問い」 P246
①作品にはどのような二項対立が存在しているか?
②作品における二項対立は私たちの社会の構造をどのように示しているか?

これが、大人向けの問いだとすると、入門期には
 
①この作品にはどのような対比の言葉(対になる言葉)があるでしょうか?
②作品における対比を大きくまとめると、何と何と言えますか?
    作品におけるこれらの対比から何が言えますか?
 
などが使われると言えるだろう。
 
   ①だけでなく②が必要なのは、①に終始してしまうと「分析のための分析」あるいは「分解」などと批判を受けてしまうからだ。
   意味のある分析であるためには、分析したことが「主題・テーマ・作者の意図」の解釈につながらないといけない。
 
「やまなし」では、「五月と十二月」の場面構成が対比されている。
「一つの花」では、「戦時中と戦後」の場面構成が対比されている。
 
この場面構成の対比を見つけて満足している場合ではない。

「だから何?」
「その対比構造にどんな意味があるの?」
「その対比によって強調されるものは何?」
 
などが明らかにされなければならない。

たとえば、「やまなし」は、「生きることと殺すことの表裏一体」が浮かんでくる。
たとえば、「一つの花」は、「戦争が家族を引き離す悲しさ」が浮かんでくる。

むろん、ほかの意味づけでもかまわない。何か自分で「意味」を決めてしまえばよいのだ。
 
 
さて、『文学のトリセツ』によれば、「脱構造批評」として、次の問いがある。
 
③物語を通して二項対立は脱構築されているか、どのように脱構築されているか。

これは、入門期には

③矛盾する対比はないか。通俗的な対比が否定されることはないか。

とでもなるだろうか。

理解不十分なのだが、この③の問いに挑戦してみた。
 
「やまなし」は、「五月と十二月」の場面が対比されている。
しかし、よく読むと通常の「夏ー冬」「明るいー暗い」「生ー死」のイメージではない。
だから、この作品では通常の対比のイメージと真逆になっている。

「一つの花」は、「戦時中は不幸、戦後は幸福」とごくごく当たり前の対比構造になっている。
しかし、よく読むと「戦時中は貧しいが父親が生きている」と「戦後は豊かだが父親がいない」の対比だから、どちらが幸福な暮らしかは一概に言えない。
だから、この作品では「戦中は不幸で、戦後は平和・豊か」という通常のイメージと異なっている。

 そうか、これが「アイロニー(皮肉な結果)」という分析の指標なのかもしれない。
 
◆「五月は残酷だけど、生き物同士の戦いがあり躍動感があるね」なのか
◆「五月は明るくて躍動感があるけど、殺されるから怖いよね」なのか、

受け止め方が真逆になる。
 
◆「戦後は父親はいないけど、暮らしが豊かになってよかったね」なのか
◆「戦後は暮らしはよくなったけど、父親がいないから悲しいね」なのか

受け止め方が真逆になる。
 
◆「ごんぎつねは撃たれてしまったけど、つぐないの主だと伝わってよかったね」なのか
◆「ごんぎつねがつぐないの主だと伝わったけど、兵十に撃たれてしまったから悲しいね」なのか

受け止め方が真逆になる。

真逆な解釈が成り立つから討論にもつながっていく。
 
小学生版の「対比」だから、通例通りの二項対立にあてはめて満足しているだけでは子供は退屈してしまう。
対比をつくった後の「意味の解明」にエネルギーを注ぎ、討論につなげないと思考が活性化しないのだ。
 

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対比の授業を考える

「二項対立・二元論」について書いておきたい。
石原千秋氏は、「二項対立・二元論」について次のように述べている。

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たとえば、「自己」ということについて考えるとしよう。そのとき、まずしなければならないのは、「自己」とは反対の概念を思い浮かべることである。それは「他者」だ。すると、「自己」という概念は、この「他者」という概念との『関係の中で考えればいいことになる。こういう方法を、二項対立とか二元論と呼ぶ。

「近代」を問い直す文章自体が、二項対立のレトリックを用いずには成立しないのだ。〈前近代/近代〉とか〈近代/現代(あるいはポストモダン〉といった二項対立はよく見かけるレトリックだ。独善的にならずに、関係の中でものを考えようとするなら、どこかで二項対立を用いるしかないのである。その意味で、二項対立は思考の基本である。

『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)P14~16
※太字は原文通り
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・・・小学校で扱う文学作品でも、二項対立(対比)で読めるものが多い。
作品の対比構造を整理すると、主題が明らかになるのだ。


(1)「ごんぎつね」の対比

「『ごんぎつね』の作品の中で重要な対比を考えさない。」と問うと、たとえば

①「いたずら」と「つぐない」
②「すれちがい」と「通じ合い」

という意見が出る。
ただし、「と」で並べるだけでは、漠然としているので、説明をさせる必要がある。

①いたずら好きだったごんが、兵十に同情して、つぐないをするようになった。
だから「いたずら」から「つぐない」へとごんが成長したという意味の対比だ。

②ごんが兵十に撃たれた直後にごんがつぐないに来たことが分かった。
だから、すれちがってしまったけど、最後の最後に心が通じ合ったという意味の対比だ。

「ごん/兵十」、「うなぎ/栗」などの具体物を取り上げても深い読みにはつながらないかもしれないが、とりあえず列挙してみると、そこから抽象思考に移行できる場合もある。
どんな対比(二項対立)でもいいから、まずはたくさん列挙させてみるのがいい。


(2)「一つの花」の対比

「『一つの花』の作品の中で重要な対比を考えさない」と問うと、

「戦争中/戦後」、「ほしがるゆみ子/与えるゆみ子」、「貧しさ/豊かさ」、「戦争/平和」、「おにぎり/コスモス」といった対比が出る。
これらを、大きな対比で括ってみると、

◆「戦時中の貧しさ」と「戦後の豊かさ」

あたりが出る。

◆「戦争中は貧しくておにぎりも十分にもらえなかったゆみ子が、戦争が終わったら豊かな食事を楽しんでいる」

対比は強調のレトリックだから、戦争中が悲惨であればあるほど、戦後の豊かさが浮かび上がってくる。


(3)「海の命」の対比

「『海の命』の作品の中で重要な対比を考えさない」と問うと、結構むずかしい。
この作品は「二項対立では捉えられないのかな」と疑ってもいる。
具体物で列挙してみる。

①「太一/じいさ」  ②「太一/父」 ③「太一/クエ」  ④「父親/与吉じいさ」
④「クエを逃がす前/クエを逃がす後」 ⑤「命を奪う海/命を救う海」
 
などから、何か抽象思考に移行してみた。
「二項対立」というよりは「二面性」と言った方がぴったりくるものもある。

◆太一の成長
①「父のような漁師になりたい太一」から「与吉じいさのような漁師になりたい太一」への成長
②「魚をたくさん捕る漁師」から「ほどほどの量で満足できる漁師」への成長
③クエを獲って復讐したい太一から、クエを逃がして「海の命」を守りたい太一への成長

◆海の二面性
①「父の命を奪う海」であると同時に「皆の命を救う恵みの海」

◆父の二面性
①「村一番の漁師」ではあると同時に「海の命を大事にしない漁師」

一番重要な対比を考えさせたとき、題が「海の命」だから、、「海の二面性」の方に子どもは惹かれるかもしれない。


(4)「やまなし」の対比

以前「陰陽二元論」という東洋的な思想を取り上げた。

「『やまなし』の作品の中で重要な対比を考えさない」と問うと、この思想が絡んでくる。

二枚の幻燈だから「5月/12月」で分けられることは、すぐに分かる。

①「五月/十二月」  ②「かばの花/やまなし」
③「かわせみ/やまなし」 ④「こわい/いいにおい」

そして、大きな対比で括ってみると、

◆「五月=動の中の死」と「十二月=静の中の誕生」

のようになる。
まさに「陰陽二元論の「陽の中の陰・陰の中の陽」の世界なのである。
 

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June 14, 2020

「転回点」=「ターニングポイント」=「クライマックス」


『宇治拾遺物語』のなかに「わらしべ長者」の話がある。

長谷寺の観音様のお告げに従ったら、手にした1本のわらがミカンになり、ミカンが布三巻になり、馬一頭になり、田畑と家になり長者になる話だ。

河合隼雄は「日本人の心を解く 夢・神話・物語の深層へ」(岩波現代全書)の中で、このお話について次のように解説している。

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若い侍はとても受け身で、道中にふりかかってくるものをただ受け入れるだけである。しかしながら馬が死ぬところを見て侍の態度は変わる。侍は積極的に馬を買おうとし、生き返るように観音様にお祈りする。馬が生き返るなど誰も思わないから、侍の側からするとこれは大きな賭である。
この抜き差しならぬコミットがこの物語りにおける転回点である。似た場面は多くの日本の物語に認められ、主人公の発達のための最も重要なポイントを成している。
転回点なくしては、ヒーローは自分自身の受動性の餌食となったであろう。けれどもそのようなポイントは抜き差しならぬコミットなしには実現されることはなく、逆に危険が伴っている。もしも馬が生き返らなかったなら、ヒーローはだめになってしまっていたであろう。P34
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なるほど!
「転回点」は初めて聞いた言葉だが、納得できた。
「クライマックス」というよりは「ターニングポイント」なのだ。

おおざっぱな筋しか知らなかったので、「わらしべ長者」の後半部を調べてみた。
それでも相当長いので、現代語訳を、抜粋して示す。

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夜が明けて、見事な馬に乗った人を見ていると、馬が急に倒れて死んでしまった。
持ち主が「この馬を始末しておけ」と、下男ひとりをそこに留め、去ってしまったのを見て

「この馬は、私の馬になるために死んだのではないだろうか。
 わらしべ一本はみかん三つになった。
  みかん三つが布三巻になった。
  この布は馬になるんだろうな」

 と思い、歩み寄って下男に向かい
「 たしかに、旅をしていては、皮を剥ごうとしても乾かすこともできないでしょう
 私はこのあたりに住んでいるので、皮を剥いで使いましょう。譲ってもらえませんか」
 と、布を一巻わたすと、下男は 思わぬもうけものをしたと走り去ってしまった。
 侍が長谷寺の方に向かって、「どうかこの馬を生き返らせてください」と念じると、馬が生き返った。
馬は元気になったが、この馬を都に引いていったら、「盗んだな」と言われてもつまらない。
「なんとかこれを売れないものかな」と思い、「馬を買いませんか」と尋ねると、
「今は、交換するような絹などはないのだが、田や米と換えてはもらえぬか」言ったので
 「私は旅をしているので、田などもらってもどうにもしようがないのですが、馬が必要なのであれば、仰るとおりでいいです」と答えた。相手は、「これはいい馬だ」と、田と家を預けて、「私が生きて帰ることがあったら、そのとき返してください。`帰るまでは、ここに住んでいてくださってかまいません。もし命を失い、死んでしまったら、自分の家としてください。子もいないので、とやかく言う人もおりません」 と言い、家を預けて、田舎へ向かってしまったので、その家に入った
 
耕した田は、思いがけないほど米がたくさん取れたため、たいへん裕福になった
 その家の主も、それっきり帰って来なかったので、家も自分のものとし、子孫もできて、栄えたという

長谷寺参籠の男 利生に預かる事
https://www.koten.net/uji/yaku/096/
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「3度めの事件で大きく成長する」という構造だ。
たまたま藁がミカンになり、ミカンが布になった若侍は、今度は自分から仕掛けた。
その時「この馬は、私の馬になるために死んだのではないだろうか」と自分を信じ、行動に移した。
これが「転回点」ということか。
ヒーローがブレイクスルーする瞬間とも言えるだろう。

「主人公がガラッと変わる瞬間」
=「ターニングポイント」
=「ブレイクスルーのポイント」
=お話としての「最高潮・クライマックス」


なのだと思う。
 

河合隼雄の先の解説と「わらしべ長者」を読んで、斎藤隆介の『八郎』と重なった。
八郎は、荒れ狂う海を前に、次のように叫ぶ。

「わかったあ !  
 おらが、  なしていままで、 
 おっきくおっきく  なりたかったか !   
 おらは、  こうして おっきく    おっきくなって、 
 こうして、   みんなのためになりたかったなだ 」


あるいは「スイミー」。スイミーはおびえる仲間たちに、こう叫ぶ。

「そうだ。みんな いっしょにおよぐんだ。海でいちばん大きな魚のふりして」
「ぼくが目になろう」


あるいは「モチモチの木」。豆太はじさまを救うために勇気をふりしぼる。

足からは血が出た。
豆太は、なきなき走った。いたくて、寒くて、こわかったからなあ。
でも、大すいなじさまの死んじまうほうがもっとこわかったから、なきなきふもとの医者様へ走った。

文章構造としての「クライマックス」を、人物の成長の「転回点」「ブレイクスルー」「ターニングポイント」で読むと、読書が味わい深くなる。

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May 31, 2020

国語読解法〜「物語の型」「一文の要約」〜

久しぶりに、石原千秋著の「秘伝 中学入試国語読解法」(新潮選書)を読んだ。1999年出版だ。
「国語(特に物語)」の授業ってギリギリ何を教えればいいのかを考えていて、書棚から引っ張り出した一冊だ。

P178に、では「国語」の勉強を始めよう とあり、次のページから第二部「入試国語を考える」の第一章「『国語』の基本型」が始まる。
久しぶりに目を通して、冒頭の数行だけでしびれてしまった。

まず「物語の型」をつかめ
フランスの批評家ロラン・バルトは、「物語は一つの文である。」という意味のことを言っている。これが、これから僕が「国語」について解説する立場である。
「物語は一つの文である。」ということは、物語が一文で要約できるということである(これを物語文と呼んでおこう)。たとえば、『走れメロス』(太宰治)なら「メロスが約束を守る物語」とか『ごん狐』(新美南吉)なら「兵十とゴンが理解し合う物語」とかいう風に要約できる。これが物語文である。もちろん、もっと抽象的に「人と人とが信頼を回復する物語」(走れメロス)とか、「人間と動物が心を通わす物語」(ごん狐)でもいい。ここで気づいてほしいのは、こんな風に物語文を抽象的にすればするほど物語どうしが互いに似てくるということだ。この共通点が「物語の型」なのである。 P179


・・・「桃太郎」の要約が重要な意味を持つことを、この箇所で知った時の衝撃が蘇ってくる。

それはさておいて、「これはどんなお話ですか」を端的に答えることが、第一段階だという。これをやらずに次へ行くなという意味だ。

一文で言うとどんなお話かをノートに書かせることを6年間(9年間)続けたら、ずいぶん手慣れてくるだろう。
石原氏は、次のように補足している。

基本型は二つある。一つは「〜が、〜をする物語」という型。これは主人公の行動をまとめたもので、たとえば「たっちゃんが恋をする物語」といったものになる。もう一つは、「〜が、〜になる物語」という型。これは主人公の変化をまとめたもので、たとえば「たっちゃんが男になる物語」といったものになる。両方とも「たっちゃん」が成長するわけだが、そのことはもう分かっているわけだから、ここでは「どうやって成長したのか」「何が成長なのか」というレベルで一文にまとめるといい。

・・・be動詞「〜になる」でまとめるパターンと、一般動詞「〜をする」でまとめるパターンがあるということだ。

一文で書けない子に「このお話の場合は、どっちが書きやすいかな」と2つのパターンを示したり、書けた子に「あなたは、どちらのパターンで書きましたか」を考えさせたりすることで、物語文をまとめる作業に慣れさせていく。
 キーワードをきっちり指定しなければ「桃太郎」の要約のようにドンピシャにはならないから、個々で書いた要約文(物語文)を互いに見せ合って、情報交換すると、より完成度の高い一文になるだろう。

 作品を読み終えたら「どんなお話か」を一文でまとめさせる

・・・何回も繰り返せば、自動化できる。

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April 25, 2020

国語の学習は「テキストを正確に詳しく読むこと」

TOSSMEDIA「向山型国語教え方教室⑧学テ・PISA型読解力を育成する授業づくり」で、向山洋一氏の巻頭論文が見ることができる。

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 さて、国語の学習での「読み」とは、「テキスト」(教材)を「読む」ことが中心となる。
 正確に読むことである。
 一字一句にも、心を配って読むことである。
 深く読むことである。
 国語の学習とは、いかなる国においても「テキストを正確に、くわしく読む」ことが中心なのである。
 教材を紙芝居にして発表するなど、信じられない学習である。
 ある県の公開発表では、「野菜」についての説明文の授業で、「野菜の気持ちになってみよう」という「芝居」を発表していた。
 これでは、「文を読む力」がつくわけがない。
 PISA型テストとは、国語学力テストB問題とは、つまり「テキストを正確に読みとる」という問題である。
 これまでの日本の国語授業の常識を超えて「さまざまな文」「さまざまな表現」「長文」からも、「正確に読みとりなさい」ということなのである。
 それを基本にして、「自分の考え」を問うているのである。
 これは向山型国語が一貫して追究してきたことである。
 「テキストを正しく深く読む」授業をすすめよう。

(教室ツーウェイ2007年9-10月39号)
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 教師が、問いと答えに敏感でなければ、子どもの言語感覚は育たない。
 このような細部にこだわった指導が「向山型一字読解指導」だと理解している。
 以下、『向山型一字読解指導』東田昌樹先生の著書より引用する。
 

私は「問い」と「答え」の基本を学ばせるために、学期に一、二度は「一字読解」という指導法をする。

というのが、『向山型国語教え方教室」(2000年10月 呼びかけ号)の巻頭論文での主張だ。
もう少し詳しく引用する。

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子どもの行ノートに、番号をつけさせる。
一行に一問を答えさせるのである。
通例は、ノートには答えを書かせるが、時として「問い」を書かせる時もある。
「問い」について、まるで習っていない子どもたちには、最初は「問い」も書かせる。
教科書のタイトルから読み始めて、イチイチ問題を出し、ノートに書かせ、答を言い、丸をつけさせるのである。
説明は簡単にして、テンポよく進める。
話し合いなどはさせない。
最初は、例えば「この作品の題は何ですか」あるいは「作者は誰ですか」ということになる。
簡単だ。簡単でいいのである。
こういう問題を20問、30問と続けて出して、基礎体力をつけるのである

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・・・「イチイチ問題を出し」という表現、がたまらない。「基礎体力をつける」という主張にゾクゾクしてしまう。
 『教室ツーウエイ』1994年10月号では「国語のテストの答え方」について、次のように述べているとある。

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「どんなこと」と聴かれたら、答えは必ず「こと」で終わること。
「どんな気持ち」と聞かれたら、答えは必ず「気持ち」で終わること。
このようなことは、基本中の基本だ。

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・・・ 向国の呼びかけ号には「テストの解き方の基本パターン15」が示されている。
東田氏は「向山型一字読解指導10の原則」の原則9として「テストの解き方15パターンを意識せよ」を挙げている。

 テストの解き方と一字読解はセットだというと、必ず受験テクニックの指導だという批判があるが、そうではない。
 目的は「問い」と「答え」の基本を学ばせ、基礎的な読解力をつけることである。 
 だから、新井紀子氏の主張する「基礎的読解力の保証」が可能になる。
 教科書の内容が正しく読み取れない子をなくすには、一字読解のような取り組みが最適だ。
 しかも、テンポよくやれば、1時間で作品全体の内容を網羅できる。
 場面に分けて当たり前のこと当たり前の言葉に置き換えるフニャケタ授業から脱却できるのだ。
 
 授業時間が不足する中で指導内容の厳選が求められる。向山型国語・一字読解の指導が威力を発揮する!

※向山氏の向国呼びかけ号巻頭論文は、TOSSMEDIA「向山型国語教え方教室❶」で見られます。

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April 11, 2020

「言いました」だらけの作文じゃつまらない

少し古い光村図書の「国語教育相談室(小学校)」98号に、達富洋治氏の面白い実践紹介があった。
https://www.mitsumuratosho.co.jp/material/pdf/kyokasho/s_kokugo/kohoshi_s_kokugo_all.pdf

「    。」と言いました。ばかりじゃつまんない ―「お手紙」(二年)―

セリフ中心のこの作品で「言いました」で終わりそうな箇所に、別の表現を入れてみようという試みだ。
語彙の少ない2年生には難しいかもしれないが、やってみる価値はある。

「がまくん」
①呼びました。 ②声をかけました。 ③近寄りました。

「ひょっとして・・」
①こっそり言いました 。
②思いなおすようにせつめいしました。
③かおをのぞきました。

「でもね」
①もういちど言いました。
②ちかくに言いました。
③あきらめません。
④がまくんが言うまえに言いました。

「きょうは・・」
①本当はしっているのに言いました。
②じしんをもってなだめました。
③いっきに言ってからがまくんを見ました。
などなど。

でも、この実践を知るだけではもったいなので、自分でモデル化する。

◆「言いました」を書き換えるというのは

A:どんなふうに「言いました」の、「どんな」を加えるタイプ
B:「言う」に近い動詞を使うタイプ
(説明する・叫ぶ・つぶやく・うったえる・どな る等)
C:「言う」の場面に応じた別の動詞を使うタイプ
(近寄る・あきらめない等)

という ABCのタイプがある。
これは「語彙」の訓練だけではなく、セリフを発する人物の心情理解につながる促す問題でもある。
月並みに言えば「どんな気持ちで言ったのですか」なのだが、それをひねった形で思考させている。

◆さらに、この実践の応用を考える。「言いました」以外の場面にも応用しないともったいない。
①「そして」以外の接続語を考えて作文を修正させる実践。
②「楽しかったです」以外の感想を考えて作文を修正させる実践
③「がんばります」 以外の決意の言葉を考えさせる実践
④「すごいです・上手です」以外の褒め言葉を考えさせる実践
などが考えられる。

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February 24, 2020

日常では、リテラシー能力が求められている!

発熱の対処、マスクの必要性、民間の健康療法、サプリメントなどなど。

これらは、つくづく「情報リテラシー」だと思った。

薬の服用については、真逆な見解や極端な見解が平然と出回っている。

そんな薬はいらないとか、そんな治療は危険だとか。


例えば「文藝春秋」3月号の特集記事。
【特集】「ニセ科学」医療に騙されるな
本庶 佑 「『免疫療法』の正しい理解のために」
超高額「がん免疫療法」戦慄の実態 岩澤倫彦
ネットの医療情報にご用心<血液クレンジングだけじゃない> 朽木誠一郎
子宮頸がんワクチンは薬害ではない 吉村泰典
<外科医が教える>漢方薬はもっと有効に使える 新見正則
安直な「睡眠薬」使用が“廃人”をつくる 辰濃哲郎/坂口 直

インフルエンザの予防にマスクは効くとか効かないのか、人によってまちまち。
インフルエンザの予防接種は効果があるとかないとか、これも人によってまちまち。

少しでも効果があるなら、念のためやっておこうかと思う。
でも、効果がない方法なら、一喜一憂するのは、すごく無駄だ。

マスクが品切れで困っているが、本当に困る必要があるのかないのか。

どうして生死に関わる大事な問題なのに、真逆の見解が出回るのか。
フェイクニュースと同じように、薬のデマはきちんと取り締まってほしいと思う。

マスクが効くという人もいれば、効かないという人もいる。
手洗いが効くという人もいれば、効かないという人もいる。

というように賛否両論が多い中、これは間違いなく「効く」というものがある。
栄養を摂る、睡眠をとる・・・つまり、自然治癒力を高めることだ。
薬には副作用の心配があるが、自然治癒力に副作用はない。
自然治癒力を高めるための様々な方法を知り、必要以上に薬を使わないようにすることが大事だ。

テレビで感染症の専門家が言っていた。

「カギは免疫力」

◆どう免疫力をつけるか、
◆どうすると免疫力が落ちるのか
◆そもそもの免疫力のメカニズム

をしっかり勉強したい。

と同時に、病気や健康に関する間違ったニュースに惑わされないリテラシー能力を身に付けたい。

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「PISA型読解力は何を示唆するか」

「PISA型読解力は何を示唆するか」は、「現代教育科学」2006年9月号の特集テーマ。
最初のPISAショックが起きて、文科省の「読解力向上に関する指導資料」が出たことを受けた特集であった。
2019年末は、14年前と同じ議論をグルグルしているのだろうか。
ここまでの情報を整理してみる。

(1)2005年12月文部科学省より出された「読解力向上プログラム。「はじめに」で次のように書いてある。

◆なお、PISA調査の「読解力」とは、「Reading Literacy」の訳であるが、わが国の国語教育等で従来用いられてきた「読解」ないしは「読解力」という語の意味するところとは大きく異なるので、本プログラムでは単に「読解力」とはせずに、あえてPISA型「読解力」と表記することとした。
①数学的リテラシー
②科学的リテラシー 
③読解力リテラシー
であるべきところを、「読解力」としてしまった。
本来「Reading Literacy」と書くべきところを「PISA型読解力」と表記したと言いながら、冊子のタイトルは「読解力向上プログラム」。
ここに初動のミスがあると思う。
2019年になってもマスコミは「PISA型読解力」と書かずに、「読解力」と表記して騒ぐ。
問うているのは「Reading Literacy」なのだという前提が共有されない。
「PISA型」という注釈をつけても、いつしか「読解力」に置き換わってしまう。
◆リテラシーとは、特定分野の事象や情報を正しく理解・分析・整理した上で、自分の言葉で表現したり、判断したりする能力を指す
(「総合教育技術」2020年2月号の教育ジャーナルより)

 PISA調査の「Reading Literacy」は、従来の日本の読解力とは大きく異なることを理解した上での議論を期待したい。
(2)「Reading Literacy」に沿った具体的な対応が、学力テストB問題であり、2020年の大学入試記述問題であった。
 センター試験に代わって2020年度から行われる大学入学共通テスト(国語)は、これまで行われてきた全国学力調査問題と傾向が酷似していた。
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「大学入試が求めるもの」
①複数の種類の実用文を読ませる  
②複数の文章を組み合わせて考えさせる
③大量の情報を処理させる
④最大200字程度の文章を20分程度の短時間で書かせる
⑤多くの条件を踏まえた文章を書かせる
⑥誰かの立場で文章を書かせる

難波博孝氏(広島大学大学院教授)
東京書籍発行「教室の窓 Vol.55」
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この点について難波氏は次のように指摘していた。

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実はこの方向性は、文科省がずっと追い求めてきたことであった。小学校・中学校関係者の方ならすぐわかるだろうが、今まで10年以上行われてきた全国学力・学習状況調査のB問題と共通テストのここまで傾向はそっくりだからである。文科省は10年かけて、共通テストの基盤をつくってきたといえる。
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 2018年11月、朝日新聞に掲載されたコメントも、同様の趣旨だ。

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文部科学省はこれまでも高校までに教える内容を決める学習指導要領で「思考力、判断力、表現力」を身につけるよう学校に求めてきた。
だが、高校では大学入試に向けた勉強に重点が置かれがちだ。
そこで大学入試も、より学習指導要領の内容に合わせるよう大きく変えることにした。
                            
朝日新聞 進学特集「20年度入試から共通テスト」2018/11/5朝刊
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授業を変えるためにゴールを決めた。入試を変えるというウルトラCを決行したのだ。
同様の指摘は「全国的な学力調査に関する専門家会議」の委員である田中博之氏も述べている。
冒頭の「現代教育教育」の特集でも執筆されている方だ。

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(2017年の大学入試試行調査は)全国学力・学習状況調査の問題と、とてもよく似ています。これは偶然ではなく、意図的に合わせているのです。つまり、記述力が全国学力・学習状況調査から大学入試まで一貫して問われる必須の学力になる、という画期的な出来事が起きようとしています。だからこそ、小中学校では一層B問題的な学力観を重視すべきなのです。  
「総合教育技術」2019.11月号 P43
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・・・「記述力が全国学力・学習状況調査から大学入試まで一貫して問われる必須の学力になる、という画期的な出来事が起きようとしています」が実現はずだった。土壇場になって、大学入試にまでつながる「PISA型読解力」が、無期延期になって混乱してしまったが、我々の問題意識まで延期するわけにはいかない。
学力テストを、無理矢理やらされているテストと捉えているようでは、PISA型読解力が身につくわけがない。
学力テストで問われているような内容を授業の中で行わない限り、PISA型読解力向上は望めないし、国際的な場で日本の生徒は活躍できない。

(3)直近の文科省のPISA読解力の見解は?

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 読解力についていえば、前回までは、「読解力」の定義は、書かれたテキスト(本や新聞など出所や校正・校閲がしっかりした書きもの)の中から「情報を探し出す」「字句の意味を理解する」「統合し、推論を創出する」「内容と形式について熟考する。」等でありました。つまり「従来型」の範囲内での「読解力」を問うものだったといえるでしょう。
 今回からは、オンライン上の様々なデジタルテキスト(ブログ、投稿文、宣伝サイト、メール文)など、文責が誰にあるのか、出所が定かであるのか、校正・校閲がしっかりなされているのかなどが一見明確ではない文書について、「質と信ぴょう性を評価したり」「矛盾を見つけ対処したりする」ことも求めており、問題自体もその7割がPC使用型調査のために開発された新規ものとなっています。つまり、前回までの「読解力」の調査からは大きく変化しているということです。
 OECDの責任者であるシュライヒャー局長も、現代社会においてデジタルの世界で求められる読解力に焦点を当てたこと、「フェイクニュース」が広がる世界での読解力がより重要な能力になっていることを明確に言及しており、今回のPISA調査は、これまでの「読解力」の範囲に加え「情報活用能力」をも求めていることは明らかだと思います。

初中教育ニュ-ス(初等中等教育局メ-ルマガジン)第373号(令和元年12月24日臨時号)
【矢野 文部科学省大臣官房審議官(初中教育担当) 特別寄稿】PISA調査2018とGIGAスクール構想
https://www.mext.go.jp/magazine/backnumber/1422844_00003....
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この審議官の言葉が一次資料なら、求められる読解力は
1 「情報を探し出す」
2 「字句の意味を理解する」
3 「統合し、推論を創出する」
4 「内容と形式について熟考する」
5 「質と信ぴょう性を評価する」
6 「矛盾を見つけ対処する」

となる。これを、

◆これまでの「読解力」に「情報活用能力」を加えたもの
◆新たな読解力(読解力と情報活用能力のハイブリッド型)

と呼んでいる。
これがまさに新学習指導要領の先の課題ということになるだろうか。
しかし、デジタルニュースの信ぴょう性を検討するスキルは、今後ますます「Reading Literacy」だ。
ハイブリッドなどと新たなワードを用いなくても、元々の「Reading Literacy」が一層重視されてきたのだとも理解できる。

ということで、「Reading Literacy」をオーソドックスにしなかった初動ミスではないかという思いが増している。

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February 23, 2020

PISA型読解力とクリテイカルシンキング

ロジカルシンキングと併せてクリティカルシンキングについては、ずっと関心を持ってきた。

PISA調査での読解力(リーディング・リテラシー)との関連で、批判的読み(クリティカル・リーディング)の重要性が話題になったからだが、元々は、宇佐美先生の著作に刺激を受けたことが発端だ。松本俊樹先生が今でも会うたびに話題にしてくださるが、法則化の初期に国語の説明文を批判的に検討したものだ。

「論理的思考力を育てる!批判的読み(クリティカル・リーディング)の授業づくり」(明治図書)という本を2年前に買ったはずだが、「積ん読」の末に、行方不明になってしまった。

ネットで改めて前書きを読む。なるほど、そうであった。

この前書きだけで、いたく感心したのだ。

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 批判的読み―この読み方を取り入れることは、説明的文章の授業を改革していくための鍵である。本書では、その意義と内容、そしてそれを取り入れた授業づくりのポイントを具体的、実践的に記した。限られた紙幅の中での不十分さはあるが、研究、実践面での議論が進展することを願って、可能な範囲で体系的、構造的にも示したつもりである。

 批判的読みは、PISA調査における読解力(リーディング・リテラシー)として注目されることになったクリティカル・リーディングでもある。批判的ということばは、日本語のニュアンスとしてはマイナスイメージがあるが、この読みは粗探しをするためのものではない。文句をつけることを奨励する読みでもない。納得できることはよしとし、腑に落ちないことはそのまま受け入れることはしない読み、文章(=筆者のものの見方や考え方)に対する自分の意見をしっかりともつ読みである。これは、高度情報社会には必須の読みの力であり、自己を確立していくためにも是非身に付けておきたい力である。

 これまで説明的文章領域では、こうした読み方が、研究者や一部の実践家を除いては、なかなか広まらなかった。それでも、先のPISA調査の影響を受けて、ここ十年くらいでずいぶんと様子が違ってきているのも事実である。

 折しも、平成二九年版の学習指導要領が告示され、国語科の「内容」の〔知識及び技能〕の項目の中に「話や文章に含まれている情報の扱い方に関する」事項が位置付いた。そこでは「事柄の順序」「原因と結果」「具体と抽象」等の論理的思考力を使って「情報と情報との関係」を理解することが要請されている。説明的文章の学習指導はその担い手として、いっそう重要となった。

 また、中学校第三学年の「読むこと」領域の内容には「イ 文章を批判的に読みながら、文章に表れているものの見方や考え方について考えること。」と明示された。義務教育最終学年に、批判的読みが位置付いたということは、小・中学校の九年間をかけて批判的読みの授業を積極的に展開し、こうした読みの力を身に付けさせるように、というメッセージである。

 筆者に立ち向かい、自分の考えをつくっていく批判的読み。そうした批判的読みを楽しむ説明的文章の授業が、多くの教室で行われるように願っている。本書が、そのための一助となれば幸いである。

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-234728-3

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・・・併せて「立ち読み」コーナーを読むと、1971年に倉沢栄吉が、以下の点が重要だと指摘したことが紹介されている。

(テキストの意味それ自体に担いがあるのではなく)その意味が、どういう人から、何のために送られてきたか

・・・書かれた内容を鵜呑みにしない「自立した読者」であるべきだと。これが批判的な読みのスタンスだ。宇佐美氏は「喧嘩読み」とも書いている。

なるほど、ネットによる著者不明の情報が溢れる現代こそ、倉澤の指摘は重みを増している。著者もそのことを強調している。

ただ、PISA型読解力=リーディング・リテラシーと、「クリティカル・リーディング」の異同となると、これまた、明快な解説が見当たらず、私は結局保留してしまったいた。

いろいろあって後回しになっていたので、改めて自分なりのアプローチで整理したい。

PISA型読解力に対応する指導をするには、どんな要素が必要かを検討するためだ。

PISA型読解力対策の事例の中に、フェイクニュースがないかを、しっかり見極めるためでもある。

著者吉川氏の以下のインタビュー記事を読んで、改めて疑問に思うのは

◆では、「クリテイカルシンキング」と、「リテラシー」はどう異なるのか

ということだ。

https://www.meijitosho.co.jp/eduzine/interview/?id=20180018

以下の学術論文を読むと、その違いは結構ややこしいのだ。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/60/2/60_163/_pdf/-char/en

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