March 05, 2017

「議論する道徳」のヒント

 たまたま読んでいた本で「疑う」ことの大切さが出てきた。

===========
 目的を読むからこその「疑う」です。「イエス、バット(Yes,but」の読み方と言ってもいいでしょう。
書いてあることは分かる、そのとおりかもしれない(イエス)。
でも(バット)、こういうこともあるんじゃないか?こういうやり方もあっていいんじゃないか、など、一度著者の意見を受け入れたうえで、違う見方もあるんじゃないか?と考えてみる。これが、ここで「疑う」と言っていることの正確な意味です。

  「A6ノートで読書を超速化しなさい」松宮義仁 徳間書店
==============

 書いてあることは分かる、そのとおりかもしれない(イエス)。
でも(バット)、こういうこともあるんじゃないか?

・・・そんな意識で道徳の資料に対峙できたら、授業の質も話し合いの質も深まるのではないだろうか。
 そもそも、教師が資料の展開を鵜呑みしていたら、Yes Butの授業展開は期待できない。
 教師が資料を鵜呑みにしないスタンスが必要で、そのためには「セカンドオピニオン(別の意見にあたってみる)も大事なのだとも言える。
 また、自分の考えを絶対視しない客観的な姿勢という意味では、「メタ認知」が必要なのだとも言える。

 ただ、いろんなカタカナ語を使うとややこしくなるので、

「そのとおりかもしれない(イエス)。でも(バット)、こういうこともあるんじゃないか?」

を合言葉にしてみたい。
 むろん、これは道徳に限ったことではない。
 相手を肯定しつつ反論する「確かに○○だ。だがしかし~」は、欧米での議論の定型になっている。
 『ホンモノの思考力 口ぐせで鍛える論理の技術』樋口裕一(集英社新書)では、たとえば次の話し方を勧めている。

「君の質問は3つの誤解に基づいている。第一の誤解、それは~」
「そこには、問題点が2つある。歴史的にみると~」
「○○の面からすると賛成だが、▽▽の面からすると反対だ」
「そもそも~とは~」
「今問題にあっているのは~」
「なぜ、そのようなことが起こっているかというと~」
「確かに~、しかし~」

など。 これらを「型思考」と言う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 05, 2014

つなぎ言葉の習得が、論理的思考の基盤になる

Photo

  4年生の国語の教科書(光村)の巻末に、つなぎ言葉の一覧表のようなページがある。
 シンプルだが、すごく便利な早見表だと思う。
 文科省発行の「言語活動の充実に関する指導事例集【小学校版】」。
 第3章の「言語活動を充実させる指導と事例」の(1)に「児童の発達の段階に応じた指導の充実」の記述がある。
「つなぎ言葉」に関連する項目のみ抜粋すると・・

【低学年】
○判断と理由の関係を明確にして表現する。
○時系列(例えば,まず,次に,そして,など)で表現できる。

【中学年】
○判断と根拠,結果と原因の関係を明確にして表現する。
○条件文( 例えば,「もし,○○○ならば,△△△である)で表現する。

【高学年】
○演繹法や帰納法などの論理を用いて表現する。
○規則性やきまりなどを用いて表現する。

・・・演繹法や帰納法を導く言葉は自分でもよく分からない。
 ただ、この一覧くらいの言葉が駆使できれば、かなりの表現ができる。
 「表現ができる」ということは、「思考を鍛えられる」ということでもある。
 ポスターにして貼っておきたいページである。

※27年度の教科書には、この図がありません!


 さて、高杉尚孝氏の「論理接続詞マップ」というのをウエブで見かけた。
 学校文法の接続詞の分類とは異なるが、カテゴリーがとても面白い。
 番号等を付けて表示します。

○順接付加
①追加: また、かつ、さらに、加えて、のみならず、限らず、~は無論のこと、 ~の上、あわせて、しかも、特に、ましてや
②対比: 他方、一方、方や、同時に、以降、以来
③解説: つまり、要するに、具体的には、例えば、実は、そもそも、ちなみに、このように、要約すると、まとめると、すなわち、いいかえると、
④条件:もし、仮に、~ならば、~すれば、~でなければ、~を踏まえると、~のかぎりにおいて、尚、
⑤選択:あるいは、または、むしろ、もしくは、それとも

○順接論証
①理由:なぜなら、というのは、その理由は、原因は、そのわけは、~からだ
②帰結:従って、故に、であるからして、結果、これを受けて、~のため、~なので、~をきっかけに、~すると
③手段:することで、することにより
④目的:~するため、~するには、~させるには、そのためには

○逆接
①反転:~しかし、しかしながら、~あるものの、にもかかわらず
②制限:ただし、もっとも、とはいうものの、反面
③譲歩:もちろん、無論、たしかに、
④転換:ところで、さて、それでは

http://blog.goo.ne.jp/keisukeita/e/76461e02cd15fe3ebf681c6867ad9b73


 高杉氏の講座資料PDFも参考になる。
http://market.bbt757.com/data/pdf/ls1314227526.pdf

 ロジカルシンキングは、学校教育関連でなく、ビジネス関連で書籍・HPはたくさんある。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 31, 2013

論理的思考=型思考

Higuti

 中学の二次方程式について、 数学の教科書には次のようにある。

(χ+3)(χー5)=0
では、X+3とXー5をかけて0になるのだから
少なくとも一方は0でなければならない。
したがって
χ+3=0 または χー5=0
χ+3=0 のとき、χ= ー3
χー5=0 のとき、χ= 5
よって、χ=-3、5

 「ああ、こういう論理の組み立ていいよなあ」と思う。
 義務教育で、論理的な思考(表現)が確実に教えられるのは、数学の時間なのである。

①もし○○ならば、△△になるはずである。したがって、□□は、▽▽である。

②○○なのだから、▽▽でなければならない。

③○○の条件を考えると、すくなくとも▽▽でなければならない。

といった、表現が自在に操れる子どもを育てたい。
 それは、国語や数学といった教科の範疇ではない。
 これは、全ての学問に通じる「型」の指導である。

 『ホンモノの思考力 口ぐせで鍛える論理の技術』樋口裕一(集英社新書)には、次の話し方を勧めている。

「君の質問は3つの誤解に基づいている。第一の誤解、それは~」
「そこには、問題点が2つある。歴史的にみると~」
「○○の面からすると賛成だが、▽▽の面からすると反対だ」
「そもそも~とは~」
「今問題にあっているのは~」
「なぜ、そのようなことが起こっているかというと~」
「確かに~、しかし~」
など。

 これを「型思考」と言う。
 樋口氏は次のように書いている。(便宜上の改行あり)
===============================
 どうやらフランスの人たちは、頭の中に自分の論ができあがってから、そのように口にいるわけではなさそうなのだ。
言い換えれば、ほとんど「くせ」として、「理由は三つある」「○○の面からすると賛成だが、▽▽の面からのすると反対だ」などと言っているにすぎないのだ。
そして、そう言ったあとで、必死になって三つの理由や○○の面や▽▽の面の根拠を考えているのだ。
つまり、「理由は三つある」「○○の面からすると賛成だが、▽▽の面からのすると反対だ」などの「型」があって、それにあてはめて話をしているにすぎないのだ。
 知識人たちも、このような「型」が頭に刷り込まれており、それを用いて思考しているのだろう。
おそらく、知識人の用いる論理パターンというものが存在し、その「型」のなかで思考しているのだ。
だから、無駄なく緻密に思考できるのだ。
言われてみれば、リヴィエールの論理展開もサルトルの論理展開も似たところがある。
そしてそれは、子どものころから数学の証明問題のように叩き込まれてきた論理形式なのだろう。
 おそらく、フランスの人々は学校でこのような口調を身につける訓練を受け、論理的に思考する「くせ」をつけているわけだ。(P24)

 もちろん、「型」を守りさえすれば論理的になるわけではない。
論理矛盾や飛躍が生じることはある。
だが、少なくとも、論理的に考えるための一つの要素を満たすことにはなる。
その意味で、「型」を守ることは、論理的に思考するためには、きわめて有効だと言えるだろう。(P25)

 そもそも、能力のあるものが個性を発揮するのは、ある程度「型」を押しつけられて、それに反発するときではないだろうか。
初めから自由にされたのでは、何も身につかない。
(中略)「型」を応用することで、論理的に思考でき、しかも個性を鍛えることができるのだ。(P27)

 戦後、日本の教育界では、「型」に当てはめることが、個性を壊すとして、何よりも嫌われてきた。
作文でも絵でも、どのように書くかは指導されず、「考えていることを自由に書きなさい」「ありのままに書けば、それでよい」とされてきた。
そうして、どのように書くかのろくにしないまま、読書感想文を書かせて、本嫌いや作文嫌いを大量に生産してきた。(中略)
 だが私の言う「型」とは、出発点としての、組み立ての基準になる「型」だ。それを目的とするわけではない。このような「型」は決して、個性的な思考の妨げにはならない。(P34)
======================

「ごんぎつね」の「ごん」は、次のような論理を展開する。

①兵十のおっ母は、床についていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。
②それで兵十がはりきり網をもち出したんだ。
③ところが、わしがいたずらをして、うなぎをとって来てしまった。
④だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。
⑤5そのままおっ母は、死んじゃったにちがいない。
⑥ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいとおもいながら、死んだんだろう。
⑦ちょッ、あんないたずらをしなけりゃよかった。

・・・ごんは、前提①で推測をしている。
 しかし、兵十のおっ母が、うなぎが食べたいと言ったかどうかは分からない。
 前提①が確定できないのだから、あとは正しい論理展開になるはずがない。
 誤った①から導かれる⑥「ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいとおもいながら、死んだんだろう」は確証がない。

 そのような論理の誤りを見抜くことも含め、楽しい「型」の学習をさせられないかと思う。
 数学から学ばねばならないことが多い。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 24, 2008

記憶の三段階

 佐々木信一郎著 『子供の潜在能力を101%引き出すモンテッソーリ教育』(講談社α新書)中に、モンテッソーリ教育の中で用いられる用語として「セガンの3段階」があると書いてあった。
  「セガンの三段階の名称練習」=「概念と言葉を結び合わせる活動」を自分なりにまとめてみる。(P70~73)
========================
1)「これは○○です」と名称を伝える「短期記憶」の段階。
2)「どっちが○○ですか」「○○をください」と何度も名前を聞いて選ばせる「保持」の段階。
  「リハーサル」とも書いてあった。
3)「これは何ですか」と聞いて「○○」と答えさせる。「再生」の段階・長期記憶の段階。
========================
・・・セガンの三段階の名称練習は、認知心理学によっても裏付けられる方法です、とある。
 また、第2段階の「大人が名称をいい、子供が何度も動く」場面が大事だとされている。
 ネットの心理学用語辞典を調べたら、よく似た箇所があった。

=========================
☆記憶 memory
 記憶とは生体が過去の経験の効果を保持し、後にそれを再現して利用する機能。符号化(明記)、貯蔵(保持)、 検索(想起)の3段階からなる。

=========================
・・・記憶の3段階は「明記・保持・想起」というのは、セガンの3段階と同義だとみてよいだろう。

 さて、この部分を読んで、いろんな実践が思い出された。

◆算数で用語を教える場面では、
 「○○とは△△のことを言います。」
 「○○とは何ですか?」
 「△△のことを何と言いますか?
の3番目のように、きちんと逆からも問うことが「詰め」になっている。
 
◆「対比」の用語を教える場面では、
1)○○と△△のような関係を「対比」と言います。

2)○○と対比されている言葉は何ですか?
2)○○と△△は、どんな点で対比されていますか。

3)この場面では何と何が対比されていますか?
3)この場面に対比はありますか?
 
1)用語を記名レベルで教えこむ
2)用語の持つ意味や定義をきちんと理解させる
3)別の場面でも自分でその用語を使いこなせるようにさせる
というように導いていかなくては、教えたことにはならない。
 
 この記憶の3段階は、認知心理学の「理解」の3段階
1)想起レベル
2)解釈レベル
3)問題解釈レベル

とも重なってくるのかが気になってきた。
 自分の知識では理解できないので、今後の課題としたい。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

February 17, 2008

論理数学的な法則性

 Photo
モンテッソーリ教育の第一人者、相良敦子氏の『お母さんの敏感期』のたくさんの箇所に付せんを入れた。

P112~113・145
・《知性の働き》は、ひとことでいえば〈区別する〉ことです。まず「分ける」のです。次に分けたものを「集める」、分けたものを「較べる」、分けたものを「合わせる」などします。別の言葉でいえば、「分析」「集合」「比較」「対応」などをするということです。知性は分析・集合・比較・対応など論理数学的な法則性によって、どんどんと展開します。
・《知性の性質》は、ひとことでいえば〈自発性〉なのです。知性が働くところには自発的な発展が見られるわけです。

・・・とりわけ「対比されている表現を集め、分類し、意味づけして主題に迫る」という国語の授業は、論理数学的な法則性だったという意味でも画期的だったわけだ。
 浴びるほどの体験の蓄積→ 「分析」「集合」「比較」「対応」という授業も、論理数学的な法則性に則しているわけだ。
 そして、この知性の働きについて、数字がもっている三つの構造を示している。

P146~147
①分類したり、結合させたりする。(代数的構造)
②A<B<Cのように系列化する(順序の構造)
③空間とか図形の性質にそって、連続させたり、隣接させたり、包囲したりする(位相的構造)

・・・思いつきの授業は、科学的根拠を持てない。
  確かな授業は、確かな科学的根拠に支えられている。
  以下の引用部分も要注意である。

P152
「分けたり・集めたり・較べたり・合わせたり」という〈数学的〉働きをしながら、また、「抽象したり・因果関係をしらべたり・類推したり」という〈哲学的〉働きをしながら、知性は、その働きを続け、どんどん発展させていくという性質をもっています。だから、知性の性質は「自発性」だといえます。

P161
《自律とは》
・自分の頭で考え(知性を働かせ)
・自分のからだ(感覚器官や運動器官)をよく使い、
・自分のやりたいことを自分で追求したり展開できる力
P162
《自立》の前提となるものが《自律》のように思えます。
・「これをこうすれば、こういう結果につながる」という見通しがもてること。
・そのように考えたら、自分の思い通りに動けること
・やり始めたことを、どんどん発展させていけること
このような力を身につけている子どもは《自律》能力を備えているといえましょう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 26, 2007

5段落の論説文

 論説文を書かせる際の基本的構造は「はじめー中ーおわり」の3段落で考えてきた。
 無理せずに、とにかく「はじめー中ーおわり」の3段落でいいから意識するように教えてきた。
 さて、日本言語技術教育学会の『検定外・力がつく日本言語技術教科書 6年生・後編」(明治図書)の「ダイエット」は5段落になっている。意味段落で言えば4段落。

 「はじめ」・・あらまし
 「なか1」・・具体的事例1
 「なか2」・・具体的事例2
 「まとめ」・・「なか」の共通する性質
 「むすび」・・意見・主張

 びっくりしたのは、具体例を2つ挙げて、その共通点を「まとめ」に書いていく作業である。
 このような文章は、教師になってからなら書いたことがある。
◆いくつかの授業実践を例示して、そこから教育技術の法則性を考察する。
◆1人の作家の作品を数点あげて、そこから、その作家の思考や作品のパターンを考察する。
である。
 一方、読みとりの授業なら、指導したことはある。
 事例1・事例2から共通項を挙げ、まとめにもっていく論説文は、教科書にもよくあるからだ。
 だから、この5段落の論説文を書く訓練は、必ず、論説文を読む時の1つのパターンとして生きる。
 そして、「具体と抽象」の往復活動の習熟に役立てることができる。
 その点では、実にすばらしい文章構成の指導であり、論理的思考の指導なのである。
 
 ただし、そう簡単には、このパターンの文章は書けないと思う。
 教材文から共通項を読みとるのも難しいのだから、自分が挙げた事例から共通項を見いだすは、もっと難しい。
 だからこそ、対比的に作品全体を読みとる授業や、自説を補強するための具体例を複数挙げる論説文を書く授業を繰り返し訓練し、この思考パターンを習熟させていく必要がある。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 03, 2007

「言語技術」が日本のサッカーを変える。

03426
瞬時に判断し、相手に伝える!
「ピッチの外」の革命的トレーニング.

ぶったまげた書籍だ。
サッカーが強くなるには、相手にきちんと自分の意志を伝える言語技術が必要なんだと。
なぜ、自分はこの動きをしたのかを説明できる言語技術。
相手にどんな動きをしてほしいかを説明できる言語技術。
目次は、次のようになっている。
=======================
1章 「言語技術」に挑戦するJFAアカデミー福島
2章 実践! ことばで鍛えるトレーニング
3章 論理でパスするドイツ・サッカー――なぜいま「言語技術」か(1)
4章 世界との差は、判断力――なぜいま「言語技術」か(2)
5章 監督のことばが、選手を伸ばす
6章 論理プラス非論理――日本流サッカーの夢へ
========================
きちんと言葉で伝えることの重要さは、指導者でも同じことだ。
サッカーの指導者のライセンスを取得するのに、デイベートのような言語トレーニングが必修となっている。
的確な指示、指導は、明確な言語技術が基盤になる。

・・・・というわけで、いち早く言語技術に着目したサッカー協会はすごい。
しかし、これは「日本のサッカー」に限ったことではない。
日本のすべてのスポーツ、あらゆる日常生活で「言語技術」は重要なのだ。

言語技術が日本を変える。

そのような自覚の元で、言語の指導に関わっていきたい。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 02, 2007

論理的思考がストーカーをなくす

 想像力がいじめをなくす・論理的思考がいじめをなくす、ということを以前書いた。
 時々起こるストーカー事件を防ぐのも小さい頃からの論理的思考の指導ではないかと思っている。

 ストーカーの気持ちが次のようなものだと仮定しての話である。
============================
自分が相手をこんなに好きなんだから、きっとわかってくれるはずだ。
============================
 まあ、百歩譲って「自分が相手をこんなに好きなんだから、相手も自分を好きだろう」とは書かなかった。
 「きっとわかってもらえる」「いつか思いは通じるはず」という強い思いこみが悲劇を生んでいる。
 世の中は相手にわかってもらえないことはたくさんあるし、たとえ分かってもらえても相手が自分を好きになるとは限らない。
 それを理解できないのは(認めないには)、失敗体験の欠如や、望む物はいつでも手に入れることができた甘やかしのツケかもしれない。
 論路的思考の観点で次のように考えてみた。

 日々の授業の中で「自分の考えが全員の考えではない」と自覚させる行為が、どれだけ意識されているだろうか。
 自由に意見を言わせる場面はけっこうあると思う。
 そこで「いろんな意見が出たね」で終わるのではなく、
 ◆意見の違いに注目し、 
 ◆自分の意見だけが正解ではないことを知り、
 ◆他の意見・他の立場を受け入れる。
まで、責任をもって授業したい。

 自分の意見が唯一の正解というわけではない、というのは、ある意味で「小さな自己否定」である。
自己否定できる人、自分を客観化できる人に育てていけば、自分の感情を絶対視してストーカー行為に走ることもないのかなあと勝手に考えている。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 04, 2007

6つの力をつける国語教科書

教科書会社の教育出版のHPを見た。

http://www.kyoiku-shuppan.co.jp/tyukns/401skts.html

によると、中学校の国語では次の6つの力を育てようとしていることが分かる。

==========================
○ 学習指導要領に示された「教科の目標」から、国語科で培う力を次の6つと定めている。

(1) 想像する力
(2) 批評する力
(3) 情報を収集する力
(4) 論理的に思考する力
(5) 対話する力
(6) 伝統を受け継ぐ力
============================
 どれも大切だ。(6)だけは、授業中にどう指導していくのか想像がつきにくいが・・。
 どれか1つに絞りたくなるが、教師の個人的な趣向で生徒の能力を限定したり生徒の可能性をせばめてはいけない。
 総花的になるが、バランスが大切だと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 13, 2007

陰陽二元論の世界観

 論理エンジンの出口氏の「論理力ノート」から、弁証法を学んだ。
http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2006/11/post_cc3f.html

 それは2者択一では物事は割り切れない発想法なのであると単純化して解釈している。
 さて、先日、学校の図書館の廃棄図書で目にしたのが次の本。

 「論語~その裏おもて~」駒田信二 主婦の友社
  昭和52年第一版

 
 全部読んでない。冒頭部だけ読んで、それだけで感激した。
 一部引用する。
=========================
 この「人間万事塞翁が馬」も「禍福は糾墨(きゅうぼく)の如し」も、わが国の諺の「楽は苦の種、苦は楽の種」や、江戸の『いろは歌留多』の「楽あれば苦あり」などの句とは、根本的にその思考をことにする。
 「楽は苦の種、苦は楽の種」は、苦と楽とを因果関係においてとらえたものであるが、「人間万事塞翁が馬」や「禍福は糾墨の如し」の禍と福は、因果関係ではなく、福には必ず禍が内包されているものであり、その禍(福に内包されている禍)にはまた、必ず福が内包されている、という陰陽二元論的な思考にもとづくものなのである。
 陰陽二元論とは易の思想である。陰陽二元の対立をその根本原理として、万物の生成変化を陰陽二元の転変をもって説明しようとするのが易である。
 「易」とは「かわる」という意味である。陰と陽とは対立するものではあるが、陰はあくまでも陰、陽はあくまで陽、と固定した不変のものではなく、陰は陽を内包し陽は陰を内包するものとして考えられる。
 たとえば、柔は陰であり剛は陽であるが、柔の中には剛がひそみ、剛の中には柔がかくれている。静は陰であり動は陽であるが、静がきわまれば動となり、動がきわまれば静となる。
===========================
 私は、この文面を読んで、次のような出来事と重ねてみた。
・好きな子の中にも嫌いな一面があり、嫌いな子の中にもいい一面がある。
・今好きな子をいずれ嫌いになることもあり、今嫌いな子を好きになることもある。

 「万物流転」というか、日本人の好む「無常観」につながるようなものを感じた。
 こんなややこしい内容は、数年前ならギブアップしていた。
 2者択一ではなく、そこから第3の名案を練り上げていくのが弁証法の「止揚」。
 2者択一を固定せず、無限に変化していくものとするのが「易」の思想。

 ウイキペデイアの「陰陽」は
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD

 大学で哲学をさぼっていたせいか、分からないことや知らないことが多くて情けない。
 でも、そのおかげで、「知る喜び」が今でも味わえる。
 「知らない」ことが今の自分にとっては「陰」であり「陽」なのである。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧